花びらを数える日々

チラシの裏、ときどき星の屑

座禅を初めて体験した感想

座禅を体験してきた。その感想を書こうと思う。

まず、経緯から。近頃はマインドフルネスやら瞑想やらで認知も広まってきている印象のある座禅だが、僕にはそれらの違いもわからないし、何が得られるのかもよくわからなかった。自分にとってよくわからないものが世間で評判になっていれば、それを知りたいと思うのは人間の性ではないだろうか。

どうやら、原点にあるのは禅らしい。ジョブズも禅には興味を示していたという。では禅について知ってみようと、いつもの通りGoogleで検索する。話がそれるが、Googleで検索する、というのはもしかしたら頭痛が痛いと同じような表現なのかもしれない。と、ふと思った。そんなことないか。
調べてみてもわからない。僕の頭の中にある宗教の枠組みからも外れたもののようだった。ますます興味深い。こんなことを考えていたのが、ひと月ほど前のことだった。

禅の修行の主たるものに、座禅があるらしいことがわかった。どうやら各地で座禅の体験会もあるらしい。それらは、禅寺で行われるものもあれば、地域住民のグループで行われるものもあるようだった。地元で探してみると、後者の集まりが見つかったので参加を申し込んでみた。

そして今日。30分の座禅を二回、計1時間座ってみた。

結果、まだ僕は何もわかっていない。いや、わかっていないことがはっきりとわかった、と言えなくもない。

座禅自体は、思った以上に自分の集中が続かないことや、無理をしていないつもりでも体のどこかに力が入ってしまったりと、いろいろと気づく点があった。あれは見た目より難しい。
基本的な作法や考え方、数息観という手法?などをお教えいただいて、それとともに、ここから先は自分次第であるということも強く念を押された。禅の教えは、教わるのではなく自分で答えを見つけるものであるようだ。なんとなく、そういうことはわかった。これもまた、難しい。

ちなみに、参加者は、皆穏やかそうな40代後半から70代くらいの方々だった。初対面での印象や年齢層については、概ね予想通りだった。少し芯のありそうな、物腰の柔らかい人たち。自主的に座禅を組む人たちというのは、おそらくそういう種類の人だろうと勝手に想像していたのだけれど、大きく外れることがなくてホッとした。 予想外だったのは、女性の比率が高かったこと。とはいえ男女比は7:3くらいだったが、男性しかいないだろうと思っていたから意外だった。

座禅にしても他の瞑想にしても、自分で時間を取るのはなかなか難しい。人間は多分、何もしないでいることが苦手な動物なんだ。
だから、どこかへ出かけて行って、こうした体験をすることはきっと価値がある。僕自身、思ったよりも良い体験になったと感じている。
まだ座禅によって何かが得られるかはわからない。何かを得るためにするものでもない、という問題もある。それでも、またやってみようと思う。

今日のタイトルはシンプルイズザベスト、と思いこれに決めた。普段は意味不明なタイトルばかりつけている僕だが、今日の記事は久々に誰かの役に立たないこともないものに思えたので、わかりやすさを重視した。どう?

鶏口牛歩

今日は何事もない一日だった。

GulpもSassも、ついでにEJSも使えるようになった。今更だ。これで生産性が上がるかもしれない。

鶏口牛後という故事成語があったが、本当にそうだろうか。むしろ牛後であった方が、学ぶことは多いのではないだろうか。誰かがそんなことを書いていたのを読んで、不安が募る。この日々から学ぶものはすでに無く、今の時間は無駄なのではないか、と。
無駄だとしたら、無駄にしているのは自分自身の責任だ。何事においてもそうだが、すべての責任は自分にある。と僕は思う。過去の自分の延長線上に自分があることはもちろんだし、もしも想定外のことがあるというのであれば、それは自分の想像力が欠けていた結果に過ぎない。

書いて消してを繰り返して、意味のない言葉ばかりを並べて、それでも文字が集まればブログは形を成していく。ゴミでも積み上げればやがて島になる、というのと同じだ。
だとすれば、無為に過ごした一日も、きっと何かの役に立つに違いない。そう信じて、今日は眠ることにしよう。

大丈夫、明日は今日よりもいい日だ。

夏の夜に眠れないのはきっと、

何かを学ぶと、それを活用するか否かを別として、何かを為した気になる。

今日は今更ながらWeb制作におけるタスクランナーについて学んだ。そこから広がる世界に胸をときめかせた。

長期的に見ればきっと大きな一歩である今日という日の学びは、しかしそれ自体は何も生み出していない。

それでも、どんな些細な行動であっても何かが変わったという事実は変わらない。だから、今日を無駄に過ごしたわけではないと、安心して眠ることができる。

理屈っぽい自分が好きじゃない。相手を傷つけまいとして、それができていないことがあるから。正しさが人を救うとは限らないということを、僕たちは知っているはずだ。なのに、ときにその正しさを通したいと思ってしまう。例えば、父の考えに反論を唱えたりする。もういい歳なのだし、もうずっと前から聞き流し方も覚えているのに。多分どこかで、正しくあってほしいと思っているからだ。

もっと適当に生きられたらいいのに、と適当に生きている僕でさえ思うのだから、きっと大変な世の中だ。

とりあえず、今日は寝る。明日が来る。明日は今日よりもいい日だ。だから僕は安心して眠ることができる。

今日できることは今日やる。今日できないことは明日の自分に任せよう。
夏休みの宿題は、夏休みが終わるまでに片付ければいい。僕たちも、その日が来るまでにあるべき自分になれればいいのだと思う。

勝手な想像だけど、背景が美しいと思うんだ

今日は、MacGIMPを入れた。普段はWindows機で古いPhotoshopを使っているのだけど、PCが重くて。Macで画像加工をしたいけど、使う頻度に対してフォトショは高いし。

誰かが作った拡張機能を追加できる、という機能には、他のアプリケーションでも散々経験しているのだけれど、毎回感心する。
もちろん、高機能なソフトウェアが無料で利用できることにも、同じく心が動く。

僕がそれらに心を動かされる理由は、多分こうだ。

本来であれば、仕事には報酬が支払われる。それがこの社会の仕組みで、企業であれば営利を目的とするのが一般的だ。そうでない企業であっても、運営のためや規模の拡大のためには利益を求めるし、普通に考えると無料で何かを提供するということはほとんどありえない。あったとしても、そこには何かしらの目的がある。見込み客の獲得のためだったり、あるいは個人情報を取得するためだったり。でも、ネットの世界には、そうでないものがある。

ウィキペディアのようなものが僕は好きだ。あれはきっと、人の善意が集まって価値を生み出したものだ。本当は違うかもしれないけれど。

つい最近、何事もシンプルにすべきだという思いをあらためて感じた。複雑さはいろいろな物事をつまらなくするから。

昨今か、もっと前からなのかはわからないが、少なくとも今は、他人の善意を信じてばかりではいられない世の中なのだと、僕たちは教わる。
誰もが利害関係を持っていて、意識していて、純粋さを欠いている。

僕が確か小学生の頃、クラスの真面目で誠実そうなK君は他人に自分の罪をかぶせた。大したことじゃなかった。僕は一部始終を見ていたのだけど、実際に彼が何をやったのか、誰が損をしたのかは、もうすっかり忘れてしまった。その程度のことだった。でも、彼は自分を守るために嘘をついて、他の誰かに濡れ衣を着せた。もしかしたらそれを着たのは、僕だったかもしれない。

いろいろな人の思惑が重なり合って、そこに自分も重なって、まるで混ぜ合わせた色のように濁って、複雑さを増していく。世の中はそういうものだと、僕たちは知らず知らずのうちに認識していく。

その中で、人の善意が結晶化したかのような仕組みや、情報や、コードがあって、僕はそれらをとても美しいと思う。色のない、形のわからないものであっても、それには美しいという言葉がふさわしい気がするんだ。

でも、正直gimpは使いづらい。

つまり、もっと楽しもう、ということ

えっと……昨日はすっかり忘れて寝てしまったのだけれど、30日チャレンジ11日目です。10日目の分は、どこかで埋め合わせしよう。

ランニングと筋トレは続いている。勉強ももっとしなくてはと思うのだけれど、そっちはなかなか気分が乗らない。本を読んだり学習用の動画を見たりするのが、音楽を聴くくらい心地よければいいのに、と思う。

本を読むのは嫌いじゃない。僕はもともと活字がわりと好きな少年で、夏休みには図書館に通ったりもした。なのに今、こうして抵抗感が強いのは、きっと、何かを得たり覚えたりしなくてはいけないという義務感を抱いて本に向かうからだろう。

多くの人は、たぶん、仕事より趣味の方が楽しいというのではないだろうか。休みの日に趣味の時間を持ちたい人は、休みの日に仕事をしたい人よりも多いはずだから。
それはもしかしたら、仕事が生産的な活動だからかもしれない、という考えが浮かんだ。

目的があって生産的な活動であるほど、その結果に注視し、過程を軽視しがちになる。ここで問題なのは「過程が楽しいかどうか」ではなく「過程にある楽しさに気付けるかどうか」という点ではないだろうか。

例えば何かを学ぶとき、一番の目的は当然「学ぶこと」や「習得すること」だ。でも、学ぶことは本来それ自体が知識欲を満たす楽しさをあたえてくれる。僕らは無意識のうちに前者に注目してしまい、結果として「楽しいことに気づけない」のではないか。だから子供は勉強を嫌いになる。僕も勉強を嫌いになる。つまりそういうこと。

もしこの考えが正しいとすれば、行為の過程に注意を向ければ勉強も楽しくなるはずだ。明日試してみよ。なんという中学生の感想的ブログだろう。たまにはいいよね。

ではいってみよう! 今日のポエムのコーナー!
走った後に見上げる空は、いつ見ても綺麗だ。体力をつけることが目的だったはずなのに、僕はいつの間にか、綺麗な空を見るために走っていたのかもしれない。そういうのも、悪くない。

以上。また明日。

生産的になろう。計画を立てよう。

計画のために費やされた時間は、もっとも生産的である。
byピーター・ドラッカー

本当これ。今日ブログで書きたかったことは、すべて上の言葉が語っている。

さて、昨日からエラーのなくならないプログラムを修正していたのだけれど、結局、一から作り直したほうが早かったというありがちなオチだった。今日失った時間の多くは、無計画な過去の自分のせいだ。
過去の自分や他の誰かが作ったものを理解して正しく使うのは難しい。こうやってフレームワークの重要性などを学ぶのだろう。その気付きが得られただけでも価値はあったと言えないこともないが。

拡張性やメンテナンス性を考慮せずに書かれたコードは本当に手に負えない。今日の自分に理解できることが、来月の自分には理解できない可能性がある、という事実を、僕は無視しがちだ。誰だって自分は常に成長していると思いたいし、できていたことができなくなるというのは、それが些細なことであっても認めたくないものだ。
そして、「認めたくないもの」というのは、ほとんどの場合、「認めざるをえないもの」と同義である。

事業をするにも、プログラムを書くにも、計画的に進めなくては後で痛い目を見る。今日の学びだね。

ブログを書くという30日チャレンジは今日で9日目。ランニングも続いている。明日で三分の一と思うと、思ったよりもあっという間かもしれない。

走りたいのは、自分が憎いからだ

走っていると、いろいろな思いが浮かんでくる。今の仕事についてのことはもちろん、昔のことを思い出したり、もっと哲学的な、考えても答えの出ないような思考がぐるぐると頭の中を巡ることもある。

わざわざ苦しい思いをして、なんで走っているんだろう、とか。理由は多分色々あるんだ。でも、やっぱり根底にあるのは自分に負けたくないという感情だった。その感情は怒りに似ていて、楽な方へ流れていこうとする自分の不甲斐なさ、情けなさに対する熱くて暗い感じのする思いだった。それがいいのか悪いのかわからないけれど、強い動機になっていることは確かで、受け入れて自分の糧にしなきゃと思う。

最近は、「若者の自分探し」なんてものを聞くことも少なくなった。その代わりなのかはわからないが、瞑想とかマインドフルネスとか、そういうものは広く知られて流行ってきているような気がする。自分のことって意外とないがしろにしがちだから、こういう傾向を僕は好意的に捉えている。

僕自身も、最近禅に興味を持ち始めた。とは言っても、まだ何も知らない。まずは形から入って、坐禅を始めてみようと思う。調べてみると、地元でもお寺や地域の人たちの集まりで、色々な会があることがわかった。今度参加してみよう。

今日はいつも以上に思考が散乱している。週末の夜には、優しくて少し明るい歌がよく似合う。心地いい音楽を聴きながら眠りにつきたい。 エラー処理に追われる仕事のことは、少しだけ忘れよう。明日の朝まで。

明日はもう少し早い時間にブログを書こう。そうすればまともな文章になるはず。いつもこんなボロボロじゃないんだ。明日は今日よりも良い日になるよ。きっと。

書きたいことはいろいろあるはずなんだ。でも、それは全部が言葉にできるわけじゃない。こんなとき、もしもギターが弾けたなら、あの歌詞を口ずさむのにな。

「言葉にできない想いがあなたの心に響きますように」