花びらを数える日々

チラシの裏、ときどき星の屑

マルチペンを巡る葛藤やら何やらについて

気づけば、僕はマルチペンを探している。

筆記具を求めているのは、何かを書きたいという衝動の波紋のようなものなのだろうか。あるいは、単なる所有欲によるものか。 どちらにせよ、僕はペンを欲している。

昨日は、インクレスペンという金属チップによって半永久的に筆記が可能とされるペンに興味を持っていた。
しかし、あれは使わないだろう、と却下。散々調べたところ、文字を書くには色が薄すぎる、用紙を選び筆圧が必要、という評が多かった。所有欲は満たされそうだが、ものを書く、という目的に対しての機能性が低すぎるのだ。
多分、僕は機能美に惹かれるのだろう、と思い直す。それにしては買う寸前までいったため、単純な物欲というのも侮れない。そしてこれを書きながら現在、コレクションとして買おうかと再び考えている。単純な物欲というのは実に恐ろしい……。

さて、機能美という観点からすれば、筆記具の中でもマルチペンは特に奥深い。
僕は長い間、ペンは単機能に限ると考えていた。質実剛健、一切の無駄を省き、目的のために最短最適な手段としての筆記具こそが美しく、信頼に足るのだ。そしてそれは単機能のペンだと、僕は思っていた。
一方、マルチペンはダサく、その上使いづらい、という固定概念があった。しかし、今思えばそれはマルチペンに標準で搭載されているリフィルの影響が大きかったように思う。

僕が今までに触ったマルチペンは、総じてインクの出が悪く、または質が良くなく、軸も太すぎるものが多かった。
しかし、インク問題に関しては互換リフィルさえあれば解決する。軸の太さについても、2色+シャープなどの3in1、あるいは4in1程度であればそれほどの太さにはならない。中には、一般的な単色のボールペンより細い軸さえある。
インクと軸の不格好さの問題が解決するのであれば、今までマルチペンに抱いていた感情は全く間違いだったということになる。自分の間違いに気がついたなら、しっかりと認め正さなくてはなるまい。
これはもしかすると、マルチペンこそが、常に目的への最適解を与えてくれる筆記具かもしれない。コペルニクス的転回だ。

しかし、まだ全てが解決したわけではない。僕の地球が動き始めるには、まだいくつかの問題が残っている。

一つは、繰り出し方式の問題。
通常の単色ボールペンであれば、ノック式が好ましい。回転繰り出し式のボールペンもいくつか使いはしているものの、その滑らか過ぎる芯の出方では何かを書くときのスイッチが入らない感じがするんだ。
ゆったりと心を落ち着けて筆記するときはいいが、そうでないときはカチリたい。
それに人間という生き物には、ボタンやスイッチの類を押したくなる遺伝子が組み込まれているのだろう、とも思う。
これから君を使うぜ!、というノックに対して、応!、とカチッという反応を返して欲しい。それは一種の儀式のようなものなんだ。挨拶をしたり、名乗りを上げるのと同じだ。普段別に名乗りは上げないけれども。

もう一つは、インクの容量の問題。
実用的である、という言葉には、経済的である、という側面が隠れていると僕は考える。
軸が高価なのは仕方ない。しかし、インクが高価なのは悩む。僕が普段使っている紙はA4の方眼紙だが、一枚あたり2.16円だ。特別な時に使う紙だけ、一枚あたり7,8円くらいのものにしている。
例えばもし、一枚何か書くのに紙代とインク代で11円かかるとしたら、無駄なことを書くより駄菓子を買ったほうが僕はきっと幸せになれるのではないか、という雑念が生じる。でも、僕はそんな雑念にとらわれずにアイデアやメモをできるだけ紙に書きたい。多く書くためには、気兼ねなく書くためには、紙もインクも安いほうがいい。
しかしながら、マルチペンのリフィルというのは概してインクの容量も少ない。
特に4C規格のものはすぐに無くなってしまう。書き心地の良さを求めて低粘度インクにでもしようものなら、尚更だ。その上、ジェットストリームの4Cの替芯は通常のリフィルより倍近い値段がする。
僕が富豪とまでは言わなくとも小金持ちだったら、高価でも良いものを買って使うだろう。でも現実は悲しいかな、お金は常に無いのだ。今日の昼食代は税込154円だ。財布の紐を緩めたところで中身がない。散財の当てはある。実に難儀だ。

10代の理想の恋人像くらいわがままを言っている自覚はある。果たして、運命のペンは見つかるだろうか。

何か物を買うときには、それが安物であろうとも、何かしらのエピソードを語れるくらいには考えてから買おう、と最近思った。
文具レビューのブログを読みあさっていたら、そういうようなことを書いている方がいらしたのだ。
今なら語れる気がする。あとは出会うだけ。