花びらを数える日々

チラシの裏、ときどき星の屑

変化する時間の価値/「ダラダラ癖」から抜け出すための10の法則 #1

「時間」は、僕たちに唯一平等に与えられた資源だなどと言われることがある。使い古された例え話のようにも聞こえるけれど、それは裏を返せば、それだけ妥当な例えということだ。
時間というものの価値は曖昧で、僕にはまだこれがどれほどの価値を持つものなのかわかっていない。ただ、一生の時間が限られている以上、それにはかけがえのない価値があるはずだ。そして、時間はどのように使おうとも、同じように消費されていく。だから、僕は時間を可能なかぎり有効に使いたい。

本棚に眠っていた本の中から、読む本を決めた。
「ダラダラ癖」から抜け出すための10の法則、という本だ。

「ダラダラ癖」から抜け出すための10の法則―集中力を最高にする時間管理のテクニック (BEST OF BUSINESS)

「ダラダラ癖」から抜け出すための10の法則―集中力を最高にする時間管理のテクニック (BEST OF BUSINESS)

帯によると、米国で四半世紀以上も読み継がれるロングセラーを和訳したものらしい。さっそく読み始めてみよう。

第1章では、時間の捉え方について書かれてある。時間というのは、どうやら子供の学習成績と同じようなものみたいだ。目をかけてあげれば、それだけ期待に応えてくれる。自分が自分の持つ時間に対してどれだけの価値を置いているかによって、時間の価値は異なる。平等に与えられているのに、その価値がひとによって異なるというのは面白い。
人は地位や立場、年齢などによって、時間に対する考え方が変わる。わかりやすいのは、年齢による感じ方の違いだ。ほとんどの場合、若者ほど時間の価値を少なく見積もり、年をとるにつれてその価値の大きさに気づくようになる。確かに僕も、10代の頃には時間が有限であることを意識することは少なかった。今だって、振り返れば無駄に過ごす時間も多いし、まだまだ軽んじていると言えるだろう。
これからこの本では、時間管理について学ぶようだ。僕たちの抱える問題の多くは、時間の制約によって生じていると言っても過言ではない。ということは、適切な時間管理の方法を身につけることができれば、日常の多くの問題を解決することができる可能性がある。

この本を読み終える頃、きっと僕はまだ正月気分でいることだろう。果たして、ダラダラせずにいられるだろうか。

3日だけでも続ける/お題「2017年にやりたいこと」

今週のお題「2017年にやりたいこと」

少し早いけれど、お題「2017年にやりたいこと」について、思うところがあったので書こうと思う。
と言うよりも、書こうと思ったことがちょうどこのお題に合っていたのだ。

2017年はこのブログを読書感想文ブログにする

本を読んで、その本の感想を書いていきたい。
理由は二つある。

  1. 本をもっと読むべきだと感じている/本を読みたい
  2. ブログを書きたいが書くことがない

ありがちだけど、僕にとっては切実な理由だ。

僕が本を読むべき理由

冬が始まる頃から、僕は在宅ワーカーになった。通勤時間は無くなり、自由に扱える時間も増えた。
そして、同時に人と会う機会が減った。人と話をすることも当然少なくなった。

本を読むことは、著者との会話だと思っている。
僕は基本的に人が好きな人間で、できることなら、生身の人間と対面で話すのが望ましいのだけれど、人と会うのはなかなか難しい。
だから、本を読むことが、多少でもその代わりになればと思っている。

ブログの題材がない、という問題についても、これは単純にインプットが少ないためだ。
日々一人で仕事をしていると、ブログに書けるような発見も得られなくなってくる。業務上かけないことも多いし、仕事のことをブログに書くのは正直気が進まない。 だから、仕事以外でインプットを増やしたい。一番簡単な方法として思いついたのが、本を読むことだ。

どのように実行するか

僕は三日坊主である。やろうと思ってもなかなか続かない。システムの構築が必要だ。
決まりを作ろう。

決まりというものは宗教の儀式に似ている。不条理に見えても、人を鍛える。

  • ブログは毎日更新する
  • 一週間に5記事は本に関する内容にする
  • 毎週続けている日曜の定点観測は継続する
  • 週一日は自由にブログを書く日にする

基本的に平日は読んだ本に関する記事を書こう。土日は自由だが、うち一日は定点観測、つまり自分の一週間を見つめ直す日に設定する。
飲み会や付き合いで夜自宅にいない場合は、書くのが辛い。だから、有給のような仕組みを作る。二週間に一度は、平日に更新をしなくてもいいことにしよう。
また、書けない日が続くことも考えられる。書けない日は、前日に予約投稿しておくか、翌日に2記事更新しても問題ないことにしよう。自分に甘いのはよくないけれど、少しゆるいくらいの方が、きっと続けられる。何にせよ、続けることが大事だ。

あ、あとデートの日は更新しなくてもいいことにしよう。相手はまだいないけど。

私の頭の中の引き出し

伝えたいことは何か。
一年の最後に、ちゃんと何かを残したい。それは、自己満足だけでなく、どこかの誰かにとって役に立つものであってほしい。
探してみたけれど見つからないから、探すのをやめてみた。

頭に思い浮かぶことを、引き出しに入れておこう。題して、私の頭の中のタンス。

一段目、少し大事なものを入れるところ

キーボードの上を走る手が、去年よりも少し早く動いている気がする。
その手は僕の視界の端にあるから、ほとんどどんな動きをしているかはわからないが、なんとなく忙しなく動いていて、あまり見ていても気持ちのいいものではない。キーを叩いたときの反応が好きだ。程よいクリック感と、トトト、という音。すべてのものには物語がある。今この文章を打つために上下しているキーボードの一つ一つのキーも、構造や配置をデザインした人がいて、きっと何人、何十人かそれ以上の人の手を渡ってこの場所にある。
世界は事実に対する解釈でできている、と僕は考えている。そして、身の回りには驚くほど多くの事実が、認識されないまま転がっている。それは、この地球には無数の宝石が埋まっている、というのと同じくらいに途方もなく、美しい事実の一つだ。

二段目、何を入れたか忘れる場所

思考と心は似ている。僕にはその違いを表現できない。考えていること、と、思っていること、の境界線は曖昧だ。感じるとと同時に思考は巡る。どちらが先なのかはわからない。わからなくても問題のないことは、わからないままにしておこう。

二段目右、貴重品用スペース

心がざわつくことがある。ざわつくどころではなく、騒ぎ散らしてどこかへ行ってしまうかのように感じることもある。
そんなとき僕は、自分のすぐ近くの事実に目を向ける。
肌に触れる風の形、無音の中にある音、足先から伝わる地面の感触、いつかどこかで嗅いだ記憶のある今日の街の空気の匂い。普段は視界の端、意識の外に映るだけのそれらを、ゆっくりと見つめてみる。すると、段々と自分と世界との境界が明確になって、自分がここにいるということがわかるようになる。
心は自分の中にあるものだから、自分の場所が把握できれば心の場所も絞り込める。
仕事でもなんでも、視覚化させることは問題の解決に有効らしい。心は目に見えないけれど、それでも居場所を意識できるようになればマシになる。
そうやって、心を落ち着かせる。

三段目、少ししたら片付けたい

夢に見る人がいて、その人のことが気になる今日この頃。これを恋かもと思って久々に浮かれていたけれど、落ち着いて考えてみると別に恋じゃないかもと思った。恋ってなんなのか。未だにわからない。

四段目、その他ごちゃごちゃ

わからないことは、きっといいことだ。わからないというのは、想像の余地や成長の余地があるということで、そこに可能性を感じ信じることができる。 宇宙人はいないかもしれない、でも、いるかもしれない。サンタクロースだって。そう思えるから、生きるのは楽しい。
今年、一時期シミュレーション仮説が僕の中でホットだった。現実や世界はわからないものリストの常連だ。恋も、今年のわからないものリストに並べておこう。

自分で書いていて、何を書いているのかよく意味がわからない。
整理整頓は苦手なんだ。

自己観察日記 #1

何かの偶然でこの記事にたどり着いてしまった方へ。
おそらくここにあなたの期待するコンテンツはありません。すみません。
もしも、あなたが他人がどのようなことを考えているかを知りたい人なら、少しは役にたつかもしれません。思考を垂れ流します。


自分について書こう。書くということは、おそらく自分自身の思考を表現する方法なのだから、自分を自分でわからずにいては、何を書くこともままならないのではないか、と思った。これは後付けの理由だ。実際のところ、今頭が混乱していて、それを何とかしたくてこの文を書いている。 この日記には大した意味はない。でも、意味がないと思っていたものが後から見直すと意味を持つこともある。だから、僕は将来自分がこの日記を見返したときに、何かしらを感じ取ってくれることを期待する。
かの天才ガリレオは、学ぶべきことのない人に出会ったことはない、と言ったそうだ。彼は僕よりも頭がいいし、その言葉もきっと正しいのだろう。だとすれば、明日の僕は今日の僕からも学ぶべきことがあるはずだ。

さて、僕は何を書くべきだろうか。
まず、今の自分を客観的に、俯瞰的に見た状態を文章にして認識しよう。
現状を把握し、あるべき場所・行くべき場所を見据え、到達するための手段を模索する。何事においても、それが大事だと思う。負けないこと投げ出さないこと逃げ出さないこと信じぬくこと、の次くらいに。

現在地

まず、今日は幸せを感じていたことは覚えておこう。年末に良い予定が入ったからだが、それだけではない。昨年と一昨年は慌ただしく、居場所のない年末年始を過ごしていたが、今年は久々に穏やかに年明けを迎えることができる。
一方で、僕自体の状態は良くない。仕事ははかどっていないし、集中力も続かず、こうして文章を書くことだけでも頭が嫌がるほどだ。 理由は幾つか思い当たる。
1.睡眠の質が悪かったこと、2.仕事がクリエイティブな領域に入ってきたこと、3.プライベートで楽しみなことがあること、の三点だ。

一つ目は、今日から少し早く寝るようにしよう。風呂も長めに入ろう。朝は早起きをしよう。習慣を変える努力をしなくては。
二つ目については、苦手分野であるという自覚が正しいかどうか、検証した方がいいかもしれない。デザインもライティングも論理的に説明が可能な仕事だ。感覚だけで何かをするわけではないのだから、頭を使えば必ず答えにたどり着くことができる。それができないというのは、単に考えることから逃げているだけだ。逃げる自分に対しては、二択を提示しよう。目の前の仕事をなんとかするか、何もしないでいるか、だ。この二択を提示されたとき、僕は後者を選択することができない。
三つ目は、どうすべきかわからない。楽しみなことに心が浮かれたりして、そんな自分も嫌ではなくて、困っている。とりあえず放置しておく。

目的地

まずは、年内に終わらせるべき仕事を明らかにしよう。
手掛けている新サイトのリリースと、年末調整や経理、ここは最低限終わらせておきたい。それが来年の自分に対する礼儀だ。また、今後の計画もまとめておきたい。無計画な人生は楽しい時もあるけれど、それはきっと責任の放棄でもある。責任を負うことがなければ、僕は成長できないし、為すべきことも為せない。設計図を描き、それを完成させるための手順書を作る必要がある。

手段

僕は自分に甘かったり、弱かったりする人間だ。それを認識した上で、意志力を強化し、支えるための仕組みを設けなくてはならない。実行が苦手ならば、実行せざるをえない仕組みを作ればいい。仕組み作りが今の僕の仕事だ。

具体的な話ができないのは、それだけ思考が甘いということだ。考えているつもりで、何も考えていない。
こんなときは、とにかく走るに限る。走って、それからまた、考えよう。

こんな一日だった。日記でもなんでもない。

週末定点観測(10週目)

第十週目。
メリークリスマス!
クリスマスは特別な日だ。何もなくても、何かありそうな予感をくれる。

活動量と睡眠時間

日付 歩いた歩数 睡眠時間
12/18 日 4,258 6:16
12/19 月 7,595 -
12/20 火 14,774 6:18
12/21 水 1,487 -
12/22 木 4,671 5:31
12/23 金 11,743 -
12/24 土 14,318 -

よく歩く一週間だった。よく走る一週間でもあった。
自分の体が自分の思う通りに動くというのは気持ちのいいことだ。良い習慣は続けていきたい。

今年のプレゼント

今年は誰からもプレゼントをもらうことなく、誰にもプレゼントをあげなかった。
これは、僕の人生で貴重な経験かもしれない。そうであることを願う。

そういえば、今朝シュワちゃんの「ジングル・オール・ザ・ウェイ」という映画を見た。こういう夢のある温かな物語は大好き。
少しうるっときた。この感動を今年のプレゼントだと思って大切にしよう。

サンタクロースに伝えたいこと

お疲れ様でした。今年もありがとう。
僕はもう子供ではないけれど、いつでも遊びに来てくれたら嬉しい。僕も早くサンタになりたい。

懺悔

ここ最近は真剣に生きていませんでした。心を入れ替えて頑張ります。

ひとりきりのクリスマス

気づくと物事の関連性を探している。これは僕のやっかいな癖だ。

一週間ほど前から、ランニングを始めた。僕は目が悪くて、普段は星なんて全く見えないのだけれど、走った後にはいつも星がよく見える。
多分、目が暗さに慣れることで、普段は見えない小さな光をとらえることができるのだろう。

僕はずっと星が好きで、でも、今ではメガネをかけても一等星くらいしか見ることができなくて、そういうものだと思ってここ数年間過ごしてきた。
でも、もしかしたら、ただ周囲が明るすぎて見えなくなっていただけなのかもしれない。

きっと、星の光のようなものは身の回りに沢山ある。他の主張の激しいものに隠れて、気づいてあげられない光。走ったり、暗闇に身を置いたりすれば、そうした光が見えるようになるかもしれない。

一人で過ごすクリスマスは久しぶりだ。たしか、一年振りくらいだと思う。
こんな夜も、寂しさを知る経験ができたと思えば、少しだけ気が晴れる。
経験という言葉は、便利で卑怯な言い訳の言葉だ。それは希望と似ている。不確かな存在で、それなのに僕はいつまでも否定できない。
まるで、サンタクロースみたいだ。

良い映画を見たときと、恋をしたときの感覚は似ている

良い映画を見たときと、恋をしたときの感覚は似ている。 昨晩、布団の中で、ふとそんなことに気がついた。

昨夜、クリスマスに何か映画でも見ようかと思ってツタヤに行って、結局何も借りることなく帰った。映画を見るだけの気力がなかったからだと思う。 どうでも良い映画を見るなら、BGMのように聞き流せばいい。でも、良い映画であればあるほど、それを観るには体力がいるのだ。世界観やストーリー、キャラクターの心情など多くの情報を受け入れ、それに対する考察をし、自分の中に生じる反応についても気を配る必要がある。膨大な情報の処理を行わなければならず、僕にとってそれは片手間にできることではない。 映画でも舞台でも、脳が処理しきれなかった情報が、自身の感情として現れるように思う。心が動く仕組みを、僕はそんな風に捉えている。

恋をすると、新しい世界が広がる。今までに気づかなかった物事に目が向いたり、知らなかった美しさに気づいたりする。自分の感情の変化も含めて、様々な普段得ることのない情報が、大量に流れ込んでくる。脳にもしメモリがあるならば、その多くの領域が対象への関心に割かれるようなもので、結果的に他の物事、例えば仕事などが手につかなくなったりする。

映画も、舞台も、音楽も、恋も、どれも本気で向き合えば向き合うほど、迷惑なほどに疲れる。 それでも、あまりにも美しいから、恋せずにはいられない。そういうものなのだと思う。

今日から始まるクリスマスムードの中、残念ながら僕は予定が一つもない。 良い映画に出会うことが難しいように、良い恋に巡り合うことも難しいのだ、きっと。