花びらを数える日々

チラシの裏、ときどき星の屑

私の頭の中の引き出し

伝えたいことは何か。
一年の最後に、ちゃんと何かを残したい。それは、自己満足だけでなく、どこかの誰かにとって役に立つものであってほしい。
探してみたけれど見つからないから、探すのをやめてみた。

頭に思い浮かぶことを、引き出しに入れておこう。題して、私の頭の中のタンス。

一段目、少し大事なものを入れるところ

キーボードの上を走る手が、去年よりも少し早く動いている気がする。
その手は僕の視界の端にあるから、ほとんどどんな動きをしているかはわからないが、なんとなく忙しなく動いていて、あまり見ていても気持ちのいいものではない。キーを叩いたときの反応が好きだ。程よいクリック感と、トトト、という音。すべてのものには物語がある。今この文章を打つために上下しているキーボードの一つ一つのキーも、構造や配置をデザインした人がいて、きっと何人、何十人かそれ以上の人の手を渡ってこの場所にある。
世界は事実に対する解釈でできている、と僕は考えている。そして、身の回りには驚くほど多くの事実が、認識されないまま転がっている。それは、この地球には無数の宝石が埋まっている、というのと同じくらいに途方もなく、美しい事実の一つだ。

二段目、何を入れたか忘れる場所

思考と心は似ている。僕にはその違いを表現できない。考えていること、と、思っていること、の境界線は曖昧だ。感じるとと同時に思考は巡る。どちらが先なのかはわからない。わからなくても問題のないことは、わからないままにしておこう。

二段目右、貴重品用スペース

心がざわつくことがある。ざわつくどころではなく、騒ぎ散らしてどこかへ行ってしまうかのように感じることもある。
そんなとき僕は、自分のすぐ近くの事実に目を向ける。
肌に触れる風の形、無音の中にある音、足先から伝わる地面の感触、いつかどこかで嗅いだ記憶のある今日の街の空気の匂い。普段は視界の端、意識の外に映るだけのそれらを、ゆっくりと見つめてみる。すると、段々と自分と世界との境界が明確になって、自分がここにいるということがわかるようになる。
心は自分の中にあるものだから、自分の場所が把握できれば心の場所も絞り込める。
仕事でもなんでも、視覚化させることは問題の解決に有効らしい。心は目に見えないけれど、それでも居場所を意識できるようになればマシになる。
そうやって、心を落ち着かせる。

三段目、少ししたら片付けたい

夢に見る人がいて、その人のことが気になる今日この頃。これを恋かもと思って久々に浮かれていたけれど、落ち着いて考えてみると別に恋じゃないかもと思った。恋ってなんなのか。未だにわからない。

四段目、その他ごちゃごちゃ

わからないことは、きっといいことだ。わからないというのは、想像の余地や成長の余地があるということで、そこに可能性を感じ信じることができる。 宇宙人はいないかもしれない、でも、いるかもしれない。サンタクロースだって。そう思えるから、生きるのは楽しい。
今年、一時期シミュレーション仮説が僕の中でホットだった。現実や世界はわからないものリストの常連だ。恋も、今年のわからないものリストに並べておこう。

自分で書いていて、何を書いているのかよく意味がわからない。
整理整頓は苦手なんだ。