花びらを数える日々

チラシの裏、ときどき星の屑

今日のつぶやき。

昔嫌だったのに、今はそうでもないことがある。食べ物の好き嫌いと同じように、行動や状況への好き嫌いというのも、少しずつ変化するのだろう。 これは、きっと僕が成長したということで、嬉しく感じる。 あるいは単に、背に腹は変えられないということを悟っただけとも言えるが。

毎日、同じような日々が続くように思えても、太陽の色も空の色も、風の匂いも肌触りも、みんな変わっていくんだ。 だからどうしたと言ってしまえばそれまでだけれど、そんな当たり前のことが美しいと思えるようになった自分を誇りたい気分なんだ。

結論も面白みもない話をダラダラと書き綴る毎日でも、きっと少しずつ、僕は成長している。そして、きっと僕よりも速い速度で、世の中は成長している。未来は明るい。今日も僕の信仰は揺るぎそうにない。いいことだ。信仰を守る、つまり、明日を今日よりも良い日にするために、今日も僕はできることをしよう。

冬至である今日は、一年の中で最も日が短い日だ。日の入りは16時32分だという。 一年で一番長い長い夜が来る。それならば明日は、一年で一番朝が美しい日かもしれない。

名作に再び出会う/祝「サイボーグクロちゃん」電子書籍化

本のいいところは、読み返すたびに違う景色を見せてくれるところだ。
自分の心の有り様によって、同じ言葉でも別の意味に感じられる。

作品に描かれたものの真意はわからない

小学生の頃の国語のテストで、筆者の気持ちを考える、という問題があったように思う。あれは筆者に気持ちを聞いて問題を作ったのだろうか。
国語の問題を作るために夏目漱石にインタビューをした人物がいるのなら、それ自体が一つの物語として有名になっていることだろう。だから、本心なんて本人以外にはわからない。登場人物の気持ちにしても然りだ。外部から見てどうか、客観的に見てどうかなんて、実際には間違っていることも多い。自分自身ですら、自分の気持ちがわからないというのに、赤の他人である僕らに何がわかるというのか。

わからないということは、想像の余地があるということ

文章や芸術の面白さというのは、ここにあるような気がしている。わかる部分もあれば、わからない部分もある。わからないということは、想像する余地が残されているということだ。その文章が何を意味するのか、どのような意図で描かれているのか、何を伝えたかったのか。わからない部分を、僕らは想像で補わなくてはならない。そして、想像で補うという行為は、義務ではなく権利だ。

想像の余地があるから、人によって違う捉え方ができる

想像は人によって異なる。想像によって生み出されるもの、つまり補完される情報は、想像した人の背景に左右される。例えば、「トンネルを抜けるとそこは、」というフレーズの続きを自由に想像することができるとして、元になった一文を聞いたことがあるかないかという経験の差が、続く言葉を大きく左右するはずだ。
経験によって想像が広がることもあれば、無意識のうちに制限されてしまうこともある。人は皆違う経験を積み重ねてきているから、人は皆違う想像をする。言葉という道具を用いた場合、同じ想像になることもある。それでも、言葉一つ一つの意味は、人によって異なる。例えば、「りんご」といえば○○と言ったとき、「赤い」と思った人は複数いても、その赤みは人によって違う。違う捉え方ができるのは、言葉には曖昧さがあり、想像の余地があるからだ。

過去の自分と今の自分は別人である

背景が異なる人間は、別人である。少し強引にそう定義してみると、過去の自分と今の自分、そして未来の自分は別人だということになる。
実際に、先ほどまで僕は元気だったが、今の僕は腹痛を抱えている。これだけで物事への感じ方が変わる。

僕にとっての名作

僕は、何度も読み返したくなる本こそ名作だと感じている。サン=テグジュペリの書いた本は個人的に素晴らしいと思う。
音楽も、聞くときの心境によって様々な表情を感じられる。僕は教養がないので良し悪しはわからないけれど、何年たっても聞くような曲は、どれも好きな曲だ。

今、「サイボーグクロちゃん」という漫画が電子書籍化を記念して、Youtubeでアニメ版の無料配信をしている。 僕が小学生の頃好きだったヒーローだ。猫なのに(&サイボーグなのに)人間らしくて、かっこいい。 子供向けのアニメだけど、風刺的なギャグが取り入れられていたり、大人になって胸に刺さる台詞もある。

言いたいことを一言で言おう。
いいアニメなので、時間があればぜひ見ましょう。

とりあえずe4

僕たちに与えられた自由は、チェスの駒の動かし方に似ている。

自由というのは、選択の自由のことだ。
どんな手を指すかという決定権は与えられているが、実は選択肢は限られている。
無限に近い広がりを見せるゲームでも、その場その場で盤面を見ていくと、勝つための最善手は限られていることが多い。
人と違う選択をすることももちろんできるけれど、それはリスクを伴う。だから、ほとんど定石通りに駒を動かす。

そう考えると、あれこれと悩む必要はないのかもしれない。
あまりにも選択肢が多いと、僕は迷ってしまう。でも、今この瞬間に取りうる選択肢は限られているのだから、その中で最善と思える手を選べばいい。

多分、考えすぎて動けないのが一番の悪手だ。
シンプルに考えよう。

週末定点観測(9週目)

第九週目。
今週からタイトルの数字を半角にした。来週以降のためだ。
プログラマは全角数字が許せないと聞いた。その定義が本当なら、僕はどうやらプログラマではないらしい。

活動量と睡眠時間

日付 歩いた歩数 睡眠時間
12/11 日 2,716 -
12/12 月 3,157 -
12/13 火 4,677 -
12/14 水 2,400 -
12/15 木 12,350 -
12/16 金 7,997 -
12/17 土 4,355 -

僕にできることなんか「  」だけ

僕にできることなんか、いつもの喫茶店でコーヒー飲みながら君を待ってるだけ……。 TOKIOのラブラブ マンハッタンは個人的に名曲だと思う。幼い頃に聴いたせいかもしれない。周囲にわかってくれる人はいない。

僕にできることが何か考えていた。考えても仕方のないことは考えない、というのが今週の抱負だったのだけれど、仕方ないかどうかは僕が決めることじゃない。僕の知ったことでもない。 僕にできることなんか、ない。という結論に至った。でも、それじゃ寂しすぎるから、僕にできることなんか考えることだけだ。と言ってみる。 そして、自分が考えることから逃げそうになったとき、思い出そうと思う。僕にできることなんか他にないんだから、これだけは逃げちゃダメだろ、と。

僕にできることなんか、いつもの席に座って、パソコンに向き合って考えるだけ。 だから、頭良くならなきゃ。もっと考えなきゃ。

頭よくなりたい その2

前回は、僕の求める頭の良さが記憶力ではなく、他者や周囲にどのような影響を与えられるかで計られる、ということがわかった。

ただ、果たして本当にそうだろうか。 今の僕は、こう疑っている。記憶力そのものは僕の求める頭の良さではなくても、周囲に影響を与える能力の根っこになる部分が記憶力にあるのではないか、と。考えてみれば、アウトプットの前には必ずと言っていいほどインプットがある。僕は手に入れた情報を加工したり結合したりすることによって、自分の意見を述べる。だとすれば、周囲に影響を与えることのできる良質なアウトプットというのは、良質なインプットがあって初めて生まれるものなのではなかろうか。 答えが見えてきた。どちらも必要なんだ、きっと。 優れた芸術家は、多分それぞれが非常に独創的な表現をすることができる。でも、それは生まれ持っての才能がそうさせるだけではなく、多くの学びがあって初めて可能になることだと思う。ならば、僕の求める頭の良さ=優れたアウトプットのための技術、には、学びというプロセスが不可欠であり、そこでまた学ぶための技術というものが求められる。

僕は忘れっぽい人間で、何か大切な経験を忘れてしまうたびに思うのだ。忘れてしまうのなら、初めから経験してないのと変わらないのではないか、と。僕が今までの記憶を全て失ってしまったら、経験の積み重ねによって得られたものも、同時に手放してしまうことになる気がする。 人は歴史から学ぶことができる、という。それは、歴史を記憶しているから学べるのだろう。どうやら、僕の求める頭の良さには、記憶力も含まれるようだ。

仮説:頭の良さは複数の能力の組み合わせでできている

一つ、仮説を立ててみよう。 頭の良さは、次のものでできている。 情報を集める能力、記憶する能力、加工する能力、発想する能力、まとめる能力、言葉にする能力、伝える能力。 それぞれ、次のようなものだ。忘れないうちに書いておこう。

情報を集める能力

これは、そのまま。

記憶する能力

上述した通り。

加工する能力

組み合わせたり、差しひいたりする力。

発想する能力

得た知識から関連性を見出したり、あるいは知識・経験の蓄積から鋭いアイデアを導き出す力。

まとめる能力

発散した思考を収束させる力。

言葉にする能力

束ねた思考に、一つの筋を通して言葉を紡ぐ力。

伝える能力

表現力、と言い換えてもいい。自分の内側から外側へ、思考を束ねて研いだ言葉を流す力。

続く。

寒さにも負けず、運動不足にも負けず

体力の衰えを実感した一日。

友人とランニングを始めた。数年前は余裕を持って走れた距離なのに、今日同じ道を走りきった後、僕は多分死にそうな顔をしていた。
最近集中力が足りないのは、もしかしたら、運動不足による体力の低下が原因かもしれない。

このところ、ほとんど毎日、川沿いの道を歩いている。そこに、今日は新しい顔を見つけた。
道の端にいつも無数の花が植えられているのだけれど、すべてが新しい苗に植え替えられていたのだ。
こんな寒い中でも、もう小さな花がついていて、その弱々しい姿に少し元気づけられる。きっと春が訪れる前には、美しく咲き誇るのだろう。負けていられない。

仕事でもプライベートでも、敵いそうにない相手がいて、叶いそうにない願いがある。でも、結局はできることをやるだけなんだ。
花が道端に咲くように、僕もここで頑張ろう。少なくとも、今は。