頭よくなりたい その2
前回は、僕の求める頭の良さが記憶力ではなく、他者や周囲にどのような影響を与えられるかで計られる、ということがわかった。
ただ、果たして本当にそうだろうか。 今の僕は、こう疑っている。記憶力そのものは僕の求める頭の良さではなくても、周囲に影響を与える能力の根っこになる部分が記憶力にあるのではないか、と。考えてみれば、アウトプットの前には必ずと言っていいほどインプットがある。僕は手に入れた情報を加工したり結合したりすることによって、自分の意見を述べる。だとすれば、周囲に影響を与えることのできる良質なアウトプットというのは、良質なインプットがあって初めて生まれるものなのではなかろうか。 答えが見えてきた。どちらも必要なんだ、きっと。 優れた芸術家は、多分それぞれが非常に独創的な表現をすることができる。でも、それは生まれ持っての才能がそうさせるだけではなく、多くの学びがあって初めて可能になることだと思う。ならば、僕の求める頭の良さ=優れたアウトプットのための技術、には、学びというプロセスが不可欠であり、そこでまた学ぶための技術というものが求められる。
僕は忘れっぽい人間で、何か大切な経験を忘れてしまうたびに思うのだ。忘れてしまうのなら、初めから経験してないのと変わらないのではないか、と。僕が今までの記憶を全て失ってしまったら、経験の積み重ねによって得られたものも、同時に手放してしまうことになる気がする。 人は歴史から学ぶことができる、という。それは、歴史を記憶しているから学べるのだろう。どうやら、僕の求める頭の良さには、記憶力も含まれるようだ。
仮説:頭の良さは複数の能力の組み合わせでできている
一つ、仮説を立ててみよう。 頭の良さは、次のものでできている。 情報を集める能力、記憶する能力、加工する能力、発想する能力、まとめる能力、言葉にする能力、伝える能力。 それぞれ、次のようなものだ。忘れないうちに書いておこう。
情報を集める能力
これは、そのまま。
記憶する能力
上述した通り。
加工する能力
組み合わせたり、差しひいたりする力。
発想する能力
得た知識から関連性を見出したり、あるいは知識・経験の蓄積から鋭いアイデアを導き出す力。
まとめる能力
発散した思考を収束させる力。
言葉にする能力
束ねた思考に、一つの筋を通して言葉を紡ぐ力。
伝える能力
表現力、と言い換えてもいい。自分の内側から外側へ、思考を束ねて研いだ言葉を流す力。
続く。