学ぶことは、きっと楽しいこと。/JavaScriptのプログラミングのツボとコツがゼッタイにわかる本
「JavaScriptのプログラミングのツボとコツがゼッタイにわかる本」という本がJavaScriptの入門書としてとても良い本だったので、紹介したい。
JavaScriptのプログラミングのツボとコツがゼッタイにわかる本
- 作者: 立山秀利
- 出版社/メーカー: 秀和システム
- 発売日: 2014/11/21
- メディア: 単行本
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言語の習得が難しい理由
僕たちは新しいことを学ぶとき、どのようにして知識を身につけていくだろうか。
JavaScriptは、一つの言語だ。だから、その学び方について考えるときは、義務教育や高等教育で英語を学んだことと比較して考えてみるとイメージを掴み易いかもしれない。
英語を学ぶとき、単語や熟語と文法は一緒に学んだ。単語だけをいくら詰め込んでも、文脈の中でどのように使用されるかを知らなくては、その単語が持つ正しい意味を理解できないことがある。だから単語だけをひたすら暗記したり、文法だけを正確に覚えたりするのは効率が悪いのだと、昔何かの本で読んだことがある。この説が実際に正しいかどうかは別として、納得できることは確かだ。
では、JavaScriptに置き換えて考えてみよう。 僕は仕事で使う必要があって、JavaScriptを学び始めた。仕事だから時間も限られていて、誰かと共同で進めるプロジェクトでもないことから、よくないとは思いつつもコピペとトライ&エラーの繰り返しで済ませていた。ネット上には本当にたくさんの情報があるから、こんなその場しのぎのやり方でも意外となんとかなる。 でも、それは英語に例えるなら、ただ例文を暗記しているようなものだ。いつまでたっても自分で文章を作ることはできないし、会話することもできない。間違った言葉遣いをして、いずれ誰かを怒らせてしまうかもしれない。
僕は考えた。手っ取り早く会話できるようになろう、と。そのためには、文法と単語を全て暗記してしまえばいい。オライリーの「JavaScript 第6版」をひたすら読んだ。そして挫折した。
- 作者: David Flanagan,村上列
- 出版社/メーカー: オライリージャパン
- 発売日: 2012/08/10
- メディア: 大型本
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東大に合格するためには、辞書を丸ごと暗記すればいい、と誰かが言っていた。それはおそらく正しいのだろう。ただ、そんなことができるのは一握りの人間だけだ。
たしかに、言語を完璧に理解すれば、あとはただ練習するだけで使いこなせるようになる。少なくとも、センスや経験といった要因を抜きにすれば、そういう理屈になるはずだ。でもそのためには、記憶力や、常人であればそれなりの勉強量・時間が必要になる。そして、僕たちは(僕は)習得する前に飽きる。投げ出す。情けないことに。
僕が思うに、挫折の理由は二つある。
完璧を目指すから挫折する。
これが一つ目の理由だ。英語もプログラミングも、完璧に美しく正しく使うことを初めから目指してしまう。 でも、まずは一言二言でも、自分の言葉で話せるようになれればいいんだ。
使いどころがわからないから挫折する
これが二つ目の理由。英語で習った「This is a pen.」なんて一生のうちに一度だって使わない気がする。(ただし「I am your father.」だけは一生に一度でいいから言ってみたい。) 「Hello, world」にしてもそうだ。お決まりは個人的には嫌いじゃないしむしろ好きだけれど、正直言ってつまらない。さらに言えば、こんなことができる、こんな機能がある、という知識(例えばAjaxとか)を得たところで、それは初心者には使いこなせなかったりする。自分が実際に使うイメージを持てなければ、どれだけ優れた仕組みでも、学ぶことを心から楽しめはしない。 (ただ、実を言うとオライリーの「JavaScript 第6版」は本当に面白かった。わからないことが多くても、一つ一つ噛み砕いて理解していけばきっと力になる。でも仕事終わりとかに読むのはかなりしんどい。)
あえて「推奨されない記述方法」から学ぶ楽しさ
「JavaScriptのプログラミングのツボとコツがゼッタイにわかる本」では、上記の問題を解決してくれている。この本では、あえて「推奨されない記述方法」から学習をスタートさせるのだ。 変数や配列といった基本中の基本でさえも、本書では中盤からようやく出現する。全体を通じて、まずは目的の機能を実装して、そこから問題点を解決していく、という流れをとっている。その中で、例えば何度も出現する値があれば変数という機能を使うことでより便利になる、といった紹介の仕方をしてくれているのだ。 そして、「推奨されない方法」から「推奨される方法」へとコードを書き換えていく中で、段々とそのコードが洗練されていくことが実感出来る。これが実に楽しい。
ボリュームは本編300ページくらい+巻末資料30ページくらいで、ページ数の割にすぐ読み終えることができた。特に初心者が躓きそうな、関数やDOM操作についてわかりやすく書かれているので、JavaScriptをこれから学ぼうという人には是非手に取ってみてもらいたい。
もちろん、抵抗がない人にはオライリーのサイ本もおすすめ。一緒に学びましょう!
隣のサボテンは青い
晴れた昼下がりの道を自転車で走っていて、ふと、視界の端に映ったサボテンの花に目が止まった。自転車から降り、近くに寄ってみると、やはり美しい光沢を持った花がそこにはあった。僕はサボテンの花が好きだ。
花を咲かせるというのは、いろいろな物事の比喩に用いられる。合格や成功など、良い意味に取られることが多い。だが、僕たちは社会人にもなると、花を咲かせる機会が極端に少なくなるように思う。目標は限りなく、高くて遠い。現状維持は衰退と同義だと教わる。常に、ずっと、高みを目指さなくては「普通」に生きていくことさえ困難だ。
サボテンの品種の一つに、金鯱というものがある。彼らは、強く立派な美しい棘を持っているから人気がある。人の社会にも、特別な成果を出さずとも、華やかで人気のある人がいる。花を咲かせることでしか誰かの目に止まることができない人たちは、そう言った存在を羨ましく思ったり、妬んだりする。でも実は、金鯱は花を咲かせるのに40年〜50年もの時間を要するそうだ。金鯱のような人からすれば、毎年や数年に一度でも花を咲かせることのできる人が羨ましいにちがいない。
花を咲かせることもできず、美しくもない僕らはどうすればいいか。きっと、それでも何か取り柄があるに決まっている。自分ではわからなくても、きっと。例えば、食べてみたら美味しいとか。
隣の芝は青く映るものだと、僕たちは知っている。比べるべきは、過去の自分だ。身長はもう伸びないけど、昨日よりも一歩でも成長して、いつかきっと、誰かを楽しませてやろう。
自己観察日記 #10
また一つ、歳を重ねた。
そろそろ、誕生日が嬉しくなくなる歳だ。そう思っていたし、そんな予感がしてた。でも、実際に誕生日を迎えてみると、意外と嬉しい。
誕生日を覚えてくれている人がいて、知らせてくれるSNSがあって、一方で、祝ってくれないパーソナルアシスタントもいる。Siri、君のことだ。以前はあんなにも良い話し相手だったのに、最近少し冷たい。
少しばかりの浮かれた気分と同時に、自分の年齢やこれから先の人生に対する焦りも押し寄せてくる。
これからどんな風に生きればいいか。この問題は、やっぱり難しい。大人になっても、簡単に解けはしないみたいだ。
ある人はこんなことを言っていた。"僕たちは人生において、一つの選択をすることになる。金のために好きでもない仕事をするか、金を二の次にしてでもやりたい仕事をするか。"
僕は、前者の選択をした人を尊敬する。その人は多分、守るべきものが見えている人だ。僕はきっと、そんな風には生きられない。
同時に僕は、後者の選択をした人を愛しく思う。その人は多分、前向きで感情的な人だ。その人の周りにはきっと春か夏の匂いがする。
今の自分は、その双方を行ったり来たりしている。どちらかの生き方を選ぶ覚悟ができず、ふらふらしている。このままじゃダメだと思いながらも。不甲斐ない。
果たして僕は、どちらの生き方を選ぶのか。
自分のことは自分が一番わかっている。そんなつもりでいる。そんな風に見せている。でも、きっとわかっていると思っていることのほとんどを、僕は本当はわかっていない。例えば、自分が何を考えているのか、何を望んでいるのか、そんなことさえも。わかってるふりをするのが得意なんだ。
これからの一年でどのように成長したいか。それを考えなくてはならない。どのように自分を見つめ直せばいいか。何ができて、何ができなくて、何をできるようにしなくてはならないか。
「責任は全部、俺が取る。」っていつか言ってみたくない?
大人になるというのは、責任を負うことを知る、ということじゃないかな。そんなことを考えていた。
責任は、旅に出るときの荷物に似ている。安全じゃない道を、あるいは、どこか知らない場所へ行くとしたら、僕たちはきっとたくさんの水や食料といった荷物を背負って歩いていくはずだ。荷物は軽いほうが歩くのは楽で、でも、それでは遠くへは行けない。すでに人のいる安全な場所へしか行けない。だから背負うんだ。辛くても苦しくても、それがあるから僕たちはどこかへ行ける。
砂漠という小説があった。大学生の話だ。その小説の中で、社会は砂漠のようなものだ、と例えられていた。目指す場所がどちらかもわからず、オアシスがどこにあるかもわからない。そんな砂漠の中を、僕たちは歩くしかないのだ、と。
本は読むたびに表情を変える。自分が成長するにつれて、違う受け取り方ができる。そんなことを言う本好きの人がいた。確かにそうかもしれない。わかったつもりでいても、わかっていないことは多い。著者の本当の気持ちなんて、いつになってもわからないかもしれない。
5年前の僕は砂漠にいたようなものだ。今も僕は砂漠にいるようなものだ。だけど、ここは5年前とは別の砂漠のようにも思える。変わらないのは、どこかへ行かなくてはいけないということと、そのためには責任という荷物を背負わなくてはならないということだ。
足腰が弱っていないだろうか。気合いと根性は十分だろうか。オアシスについたところで、そこは目的地じゃない。いつまで歩き続ければいいかもわからない。それでも、僕らは覚悟を決めなくてはならない。
ここに定住するつもりがないなら、生きるために責任を負おう。時折逃げ出したくもなるけれど、僕たちはもう、子どもじゃない。それはきっと、誇らしいことだ。
少年の頃、泥だんごを磨いた。磨けば磨くほど、それは宝物のように、美しく思えた。
泥みたいな今の自分も、磨いてみたら好きになれるかなぁ。
知れば知るほど、自分が何も知らないということがわかってくる。この事実はずっと前から知っていた。しかしそれさえも知った気になっていただけなのだ。
自分の成長の遅さに嫌気がさす。でも、それに気付くことができたというだけでも一歩前進だ。自分には時間が残されていないということも、あらためて 自分自身に言い聞かせよう。いつまでもここにいるわけにはいかない。
生きていくためには働くなり何なりしてお金を得なくてはいけなくて、その中で自分自身の目指す場所に向けて、目指す自分に向けて歩を進めなくてはならない。成長しなくてはならない。一種の強迫観念のようなこの思いは、糧にもなる。だから、ちゃんと向き合っていこうと思う。日々の中で、苦しくても成長していこうと思う。どれだけ変わっていけるかわからないけれど、少しずつでも、もっと、変わらなくてはならない。今と違う場所に行くには、今と違う景色を見るには、変わらなくてはならない。
周りに目を向けると、まるで天才ばかりいるような気がしてくる。僕なんかとてもじゃないが、足元にも及ばない。でも、だからこそ、這い上がってやろう。 今はまだ周回遅れかもしれない。だけどここから、追いついてやろう。みんなが必死に走るなら、それ以上に必死に走ればいい。僕が一つ負けないことがあるとしたら、それは諦めの悪さかもしれない。いつだって可能性がないと思ったことはない。今までだって、周囲の反対を無視して生きてきた。自分自身が無理だと思うことも、冷静な自己分析を無視してやってきた。今からだってきっと、もっと遠くへ行ける。
でも結局、自信がないからこんな風に言葉を連ねてごまかすんだ。それでもいい。何もしないよりは、何かしら動いたほうがいい。ヘミングウェイは、動きと行動を混同してはならない、と書いた。僕には動きと行動の違いなんてわからない。わからないけど、それでも動くことにするよ。誰かに無駄だと言われて本当に無駄だったことなんて、ない。
いつから全力疾走しない人間になったんだ?
今日は暑かった。なので、河原で全力疾走してみた。
世の中のいろいろは、変わらないように見えても変わっていく。
30メートルほどの道を本気で走ったら、すぐに息が上がって、久々に心臓の悲鳴を聞いた。
僕の身体も、日々変わっていく。思ったより衰えている。
でも、これでいい。変わったことを受け止めて、失くしたものを受け容れて、それからまた進めばいいのだ。きっと。
半年ぶりに家族と会って、こうして顔を合わせるのがあと何回かと数えてみたり、あるいは、仕事を始めた頃のことを思い出して、あの頃は全力で走っていたかなんて振り返ってみたりしている。
今と過去が違うから、今と未来も違うと思える。
ここから、また走り出そう。またいつかこの気持ちを忘れても、また思い出そう。
ウサギとカメの童話では、カメが勝つらしい。でもカメのような人はたぶん世の中では希少で、多くの人はおそらく、怠けても大丈夫と思っているウサギか、つい怠けてしまうウサギか、自分をウサギと思ってるカメか、怠け者のカメだ。
僕もその中のひとりだけど、とりあえず、少しだけ、全力で走ってみよう。一歩でも前へ。
働こう。寝よう。暁はそのうちやってくるはず。
世間はゴールデンウィークだ。今日は穏やかな春の陽気で気分が良く、このゴールデンウィークという言葉の響きも耳に心地がいい。
仕事にも少し疲れてきたから、調べごとのついでにネットサーフィンをしてから気分転換にブログを書こうと思った。
最近は仕事が楽しい。厳密に言えば、仕事が楽しいのではなく、そこで得られる自己成長や学びが僕を楽しくさせるのだ。今の仕事は収入にもすぐには繋がらないし、誰の役にたつとも限らないもので、それでも何かに繋がっていくと思えるものだ。足踏みではなく、前進だと思える何かで、だから楽しい。
いつもいつも中途半端に生きてきた。春休みも夏休みも大抵はダラダラと過ごす。それか休みがない。たぶん、今の若い人たちに多いであろう症状の一つに、物事に真剣になれない、熱くなれないというものがある。僕がそうだ。
何かにはまっても、マイブームのようなものがあっても、あるいは誰かに強制されても、心の底から真剣に打ち込む対象というのはなかった。どこかで手を抜いたり、妥協したりしている。
本気になるのがカッコ悪いとか、そんなことを思っているわけではない。むしろ、本気になれる人を尊敬もするし、羨んでいる。自分もできることならそうなりたい、と。
でも、僕たちは見つけることができない。自分を変えるほどの強い何か、本気になるための意味や意義を、見いだせない。
僕は寝ることが好きで、夜はできることなら10時間寝ていたい。でも、ずっと寝ていると、例えば14時間くらい寝ていると、もうそろそろ起きようかと思える。
同じように、見つからないものも、いつかふと目にはいるのではないか、という気がしている。探すのをやめた探し物が出てくるみたいに。
それまでは、何か未来に繋がりそうと思える仕事をしていこうと思う。