花びらを数える日々

チラシの裏、ときどき星の屑

物語を摂取することとその弊害について考えた

物語を摂取することとその弊害について。

僕は小説も音楽も映画も演劇もゲームも紙芝居も絵本もアニメも好きだ。
そういえば、君はDDなんだねと昔付き合っていた子に言われた。誰でも大好きの略で、それは僕の短所でもあるらしい。しかし節操がないわけではない。博愛主義なのだ。

様々なコンテンツや、あるいは他人から聞く話は、それぞれが一つの物語だ、と今日の僕は考えた。
登場人物がいて、あるいは語り部がいて、その人は色々な背景と思考を持って行動する。
物語には取るに足らないものもあれば、反対に、ずっと自分の心に残るものもある。

心に残る物語というのは自分にとって大切なもので、それゆえに厄介だ。
僕が何かを考えるとき、何かを決断するとき、何かの行動を起こすとき、物語の登場人物が僕に囁く。それは無意識的であったり意識的であったりするのだが、僕はそれに耳を貸してしまう。彼なら、彼女なら、どうするだろうか。何と言うだろうか、と。

誰だって少しは考えたことはあるはずだ。
もし自分が坂本龍馬なら、この場でどう立ち回るか、とか。
ジョブズがいたら、今の僕の仕事ぶりをこっぴどく非難するだろう、とか。

大切な物語が自分の中に増えると、その物語自体や登場人物が、僕の一つの人格のように振る舞う。
例えばこの上なくかっこいいロックを聴くと、ロックな自分が表れたりする。
多分、人格や個性の構築というものは、ある面ではこういった見たもの、読んだもの、聞いたこと、等々の積み重ねによって行われるのだろう。だとすればこれは自然なことだ。

しかし、僕は少し怖くなってしまった。
年を重ねて、色々な物語を見てきて、自分の中にも無数の物語が生まれて、いつしかそれは自身の許容上限を上回ってしまうのではないか、と。

どうでもいい物語ばかりなら問題はないのだけれど。
大事にしたい物語、言葉や、人や、考え方が増えすぎてしまうと、僕の思考は身動きが取れなくなってしまうのではないか、という懸念があるのだ。
自分の本音が他の声にかき消されてしまうのではないかとか、大事な声の一つ一つが薄れてしまうのではないかとか、そういう恐怖があるのだ。

この問題意識は、ネットの海に情報が沈むのに似ている。最近は誰でも情報発信ができて、それがお金になったりもして、本当に価値のある情報、正しい情報が埋もれてしまうという現象が生じている。Googleをはじめとする検索エンジンはそれに対抗するべくアルゴリズムを日々改善しているわけだ。

翻って、僕という人間の意識においても、物語の洪水に対抗するためには、価値あるものを拾い出す仕組みを構築していかなくてはならない。
大切な物語を、必要なときに正しく役立つ形で思い出せるように、整理したり埃を払ったり磨いたりしておかなくてはならない。普段から思い出したり、忘れないように記録したり、自分の言葉に変換したりしておこう。

甘いものを食べた後に歯を磨くのと同じだ。
僕はそんな風にして、物語を摂取することの弊害に対抗しよう。