花びらを数える日々

チラシの裏、ときどき星の屑

自己観察日記 #1

何かの偶然でこの記事にたどり着いてしまった方へ。
おそらくここにあなたの期待するコンテンツはありません。すみません。
もしも、あなたが他人がどのようなことを考えているかを知りたい人なら、少しは役にたつかもしれません。思考を垂れ流します。


自分について書こう。書くということは、おそらく自分自身の思考を表現する方法なのだから、自分を自分でわからずにいては、何を書くこともままならないのではないか、と思った。これは後付けの理由だ。実際のところ、今頭が混乱していて、それを何とかしたくてこの文を書いている。 この日記には大した意味はない。でも、意味がないと思っていたものが後から見直すと意味を持つこともある。だから、僕は将来自分がこの日記を見返したときに、何かしらを感じ取ってくれることを期待する。
かの天才ガリレオは、学ぶべきことのない人に出会ったことはない、と言ったそうだ。彼は僕よりも頭がいいし、その言葉もきっと正しいのだろう。だとすれば、明日の僕は今日の僕からも学ぶべきことがあるはずだ。

さて、僕は何を書くべきだろうか。
まず、今の自分を客観的に、俯瞰的に見た状態を文章にして認識しよう。
現状を把握し、あるべき場所・行くべき場所を見据え、到達するための手段を模索する。何事においても、それが大事だと思う。負けないこと投げ出さないこと逃げ出さないこと信じぬくこと、の次くらいに。

現在地

まず、今日は幸せを感じていたことは覚えておこう。年末に良い予定が入ったからだが、それだけではない。昨年と一昨年は慌ただしく、居場所のない年末年始を過ごしていたが、今年は久々に穏やかに年明けを迎えることができる。
一方で、僕自体の状態は良くない。仕事ははかどっていないし、集中力も続かず、こうして文章を書くことだけでも頭が嫌がるほどだ。 理由は幾つか思い当たる。
1.睡眠の質が悪かったこと、2.仕事がクリエイティブな領域に入ってきたこと、3.プライベートで楽しみなことがあること、の三点だ。

一つ目は、今日から少し早く寝るようにしよう。風呂も長めに入ろう。朝は早起きをしよう。習慣を変える努力をしなくては。
二つ目については、苦手分野であるという自覚が正しいかどうか、検証した方がいいかもしれない。デザインもライティングも論理的に説明が可能な仕事だ。感覚だけで何かをするわけではないのだから、頭を使えば必ず答えにたどり着くことができる。それができないというのは、単に考えることから逃げているだけだ。逃げる自分に対しては、二択を提示しよう。目の前の仕事をなんとかするか、何もしないでいるか、だ。この二択を提示されたとき、僕は後者を選択することができない。
三つ目は、どうすべきかわからない。楽しみなことに心が浮かれたりして、そんな自分も嫌ではなくて、困っている。とりあえず放置しておく。

目的地

まずは、年内に終わらせるべき仕事を明らかにしよう。
手掛けている新サイトのリリースと、年末調整や経理、ここは最低限終わらせておきたい。それが来年の自分に対する礼儀だ。また、今後の計画もまとめておきたい。無計画な人生は楽しい時もあるけれど、それはきっと責任の放棄でもある。責任を負うことがなければ、僕は成長できないし、為すべきことも為せない。設計図を描き、それを完成させるための手順書を作る必要がある。

手段

僕は自分に甘かったり、弱かったりする人間だ。それを認識した上で、意志力を強化し、支えるための仕組みを設けなくてはならない。実行が苦手ならば、実行せざるをえない仕組みを作ればいい。仕組み作りが今の僕の仕事だ。

具体的な話ができないのは、それだけ思考が甘いということだ。考えているつもりで、何も考えていない。
こんなときは、とにかく走るに限る。走って、それからまた、考えよう。

こんな一日だった。日記でもなんでもない。

週末定点観測(10週目)

第十週目。
メリークリスマス!
クリスマスは特別な日だ。何もなくても、何かありそうな予感をくれる。

活動量と睡眠時間

日付 歩いた歩数 睡眠時間
12/18 日 4,258 6:16
12/19 月 7,595 -
12/20 火 14,774 6:18
12/21 水 1,487 -
12/22 木 4,671 5:31
12/23 金 11,743 -
12/24 土 14,318 -

よく歩く一週間だった。よく走る一週間でもあった。
自分の体が自分の思う通りに動くというのは気持ちのいいことだ。良い習慣は続けていきたい。

今年のプレゼント

今年は誰からもプレゼントをもらうことなく、誰にもプレゼントをあげなかった。
これは、僕の人生で貴重な経験かもしれない。そうであることを願う。

そういえば、今朝シュワちゃんの「ジングル・オール・ザ・ウェイ」という映画を見た。こういう夢のある温かな物語は大好き。
少しうるっときた。この感動を今年のプレゼントだと思って大切にしよう。

サンタクロースに伝えたいこと

お疲れ様でした。今年もありがとう。
僕はもう子供ではないけれど、いつでも遊びに来てくれたら嬉しい。僕も早くサンタになりたい。

懺悔

ここ最近は真剣に生きていませんでした。心を入れ替えて頑張ります。

ひとりきりのクリスマス

気づくと物事の関連性を探している。これは僕のやっかいな癖だ。

一週間ほど前から、ランニングを始めた。僕は目が悪くて、普段は星なんて全く見えないのだけれど、走った後にはいつも星がよく見える。
多分、目が暗さに慣れることで、普段は見えない小さな光をとらえることができるのだろう。

僕はずっと星が好きで、でも、今ではメガネをかけても一等星くらいしか見ることができなくて、そういうものだと思ってここ数年間過ごしてきた。
でも、もしかしたら、ただ周囲が明るすぎて見えなくなっていただけなのかもしれない。

きっと、星の光のようなものは身の回りに沢山ある。他の主張の激しいものに隠れて、気づいてあげられない光。走ったり、暗闇に身を置いたりすれば、そうした光が見えるようになるかもしれない。

一人で過ごすクリスマスは久しぶりだ。たしか、一年振りくらいだと思う。
こんな夜も、寂しさを知る経験ができたと思えば、少しだけ気が晴れる。
経験という言葉は、便利で卑怯な言い訳の言葉だ。それは希望と似ている。不確かな存在で、それなのに僕はいつまでも否定できない。
まるで、サンタクロースみたいだ。

良い映画を見たときと、恋をしたときの感覚は似ている

良い映画を見たときと、恋をしたときの感覚は似ている。 昨晩、布団の中で、ふとそんなことに気がついた。

昨夜、クリスマスに何か映画でも見ようかと思ってツタヤに行って、結局何も借りることなく帰った。映画を見るだけの気力がなかったからだと思う。 どうでも良い映画を見るなら、BGMのように聞き流せばいい。でも、良い映画であればあるほど、それを観るには体力がいるのだ。世界観やストーリー、キャラクターの心情など多くの情報を受け入れ、それに対する考察をし、自分の中に生じる反応についても気を配る必要がある。膨大な情報の処理を行わなければならず、僕にとってそれは片手間にできることではない。 映画でも舞台でも、脳が処理しきれなかった情報が、自身の感情として現れるように思う。心が動く仕組みを、僕はそんな風に捉えている。

恋をすると、新しい世界が広がる。今までに気づかなかった物事に目が向いたり、知らなかった美しさに気づいたりする。自分の感情の変化も含めて、様々な普段得ることのない情報が、大量に流れ込んでくる。脳にもしメモリがあるならば、その多くの領域が対象への関心に割かれるようなもので、結果的に他の物事、例えば仕事などが手につかなくなったりする。

映画も、舞台も、音楽も、恋も、どれも本気で向き合えば向き合うほど、迷惑なほどに疲れる。 それでも、あまりにも美しいから、恋せずにはいられない。そういうものなのだと思う。

今日から始まるクリスマスムードの中、残念ながら僕は予定が一つもない。 良い映画に出会うことが難しいように、良い恋に巡り合うことも難しいのだ、きっと。

今日のつぶやき。

昔嫌だったのに、今はそうでもないことがある。食べ物の好き嫌いと同じように、行動や状況への好き嫌いというのも、少しずつ変化するのだろう。 これは、きっと僕が成長したということで、嬉しく感じる。 あるいは単に、背に腹は変えられないということを悟っただけとも言えるが。

毎日、同じような日々が続くように思えても、太陽の色も空の色も、風の匂いも肌触りも、みんな変わっていくんだ。 だからどうしたと言ってしまえばそれまでだけれど、そんな当たり前のことが美しいと思えるようになった自分を誇りたい気分なんだ。

結論も面白みもない話をダラダラと書き綴る毎日でも、きっと少しずつ、僕は成長している。そして、きっと僕よりも速い速度で、世の中は成長している。未来は明るい。今日も僕の信仰は揺るぎそうにない。いいことだ。信仰を守る、つまり、明日を今日よりも良い日にするために、今日も僕はできることをしよう。

冬至である今日は、一年の中で最も日が短い日だ。日の入りは16時32分だという。 一年で一番長い長い夜が来る。それならば明日は、一年で一番朝が美しい日かもしれない。

名作に再び出会う/祝「サイボーグクロちゃん」電子書籍化

本のいいところは、読み返すたびに違う景色を見せてくれるところだ。
自分の心の有り様によって、同じ言葉でも別の意味に感じられる。

作品に描かれたものの真意はわからない

小学生の頃の国語のテストで、筆者の気持ちを考える、という問題があったように思う。あれは筆者に気持ちを聞いて問題を作ったのだろうか。
国語の問題を作るために夏目漱石にインタビューをした人物がいるのなら、それ自体が一つの物語として有名になっていることだろう。だから、本心なんて本人以外にはわからない。登場人物の気持ちにしても然りだ。外部から見てどうか、客観的に見てどうかなんて、実際には間違っていることも多い。自分自身ですら、自分の気持ちがわからないというのに、赤の他人である僕らに何がわかるというのか。

わからないということは、想像の余地があるということ

文章や芸術の面白さというのは、ここにあるような気がしている。わかる部分もあれば、わからない部分もある。わからないということは、想像する余地が残されているということだ。その文章が何を意味するのか、どのような意図で描かれているのか、何を伝えたかったのか。わからない部分を、僕らは想像で補わなくてはならない。そして、想像で補うという行為は、義務ではなく権利だ。

想像の余地があるから、人によって違う捉え方ができる

想像は人によって異なる。想像によって生み出されるもの、つまり補完される情報は、想像した人の背景に左右される。例えば、「トンネルを抜けるとそこは、」というフレーズの続きを自由に想像することができるとして、元になった一文を聞いたことがあるかないかという経験の差が、続く言葉を大きく左右するはずだ。
経験によって想像が広がることもあれば、無意識のうちに制限されてしまうこともある。人は皆違う経験を積み重ねてきているから、人は皆違う想像をする。言葉という道具を用いた場合、同じ想像になることもある。それでも、言葉一つ一つの意味は、人によって異なる。例えば、「りんご」といえば○○と言ったとき、「赤い」と思った人は複数いても、その赤みは人によって違う。違う捉え方ができるのは、言葉には曖昧さがあり、想像の余地があるからだ。

過去の自分と今の自分は別人である

背景が異なる人間は、別人である。少し強引にそう定義してみると、過去の自分と今の自分、そして未来の自分は別人だということになる。
実際に、先ほどまで僕は元気だったが、今の僕は腹痛を抱えている。これだけで物事への感じ方が変わる。

僕にとっての名作

僕は、何度も読み返したくなる本こそ名作だと感じている。サン=テグジュペリの書いた本は個人的に素晴らしいと思う。
音楽も、聞くときの心境によって様々な表情を感じられる。僕は教養がないので良し悪しはわからないけれど、何年たっても聞くような曲は、どれも好きな曲だ。

今、「サイボーグクロちゃん」という漫画が電子書籍化を記念して、Youtubeでアニメ版の無料配信をしている。 僕が小学生の頃好きだったヒーローだ。猫なのに(&サイボーグなのに)人間らしくて、かっこいい。 子供向けのアニメだけど、風刺的なギャグが取り入れられていたり、大人になって胸に刺さる台詞もある。

言いたいことを一言で言おう。
いいアニメなので、時間があればぜひ見ましょう。

とりあえずe4

僕たちに与えられた自由は、チェスの駒の動かし方に似ている。

自由というのは、選択の自由のことだ。
どんな手を指すかという決定権は与えられているが、実は選択肢は限られている。
無限に近い広がりを見せるゲームでも、その場その場で盤面を見ていくと、勝つための最善手は限られていることが多い。
人と違う選択をすることももちろんできるけれど、それはリスクを伴う。だから、ほとんど定石通りに駒を動かす。

そう考えると、あれこれと悩む必要はないのかもしれない。
あまりにも選択肢が多いと、僕は迷ってしまう。でも、今この瞬間に取りうる選択肢は限られているのだから、その中で最善と思える手を選べばいい。

多分、考えすぎて動けないのが一番の悪手だ。
シンプルに考えよう。