花びらを数える日々

チラシの裏、ときどき星の屑

「責任は全部、俺が取る。」っていつか言ってみたくない?

大人になるというのは、責任を負うことを知る、ということじゃないかな。そんなことを考えていた。

責任は、旅に出るときの荷物に似ている。安全じゃない道を、あるいは、どこか知らない場所へ行くとしたら、僕たちはきっとたくさんの水や食料といった荷物を背負って歩いていくはずだ。荷物は軽いほうが歩くのは楽で、でも、それでは遠くへは行けない。すでに人のいる安全な場所へしか行けない。だから背負うんだ。辛くても苦しくても、それがあるから僕たちはどこかへ行ける。

砂漠という小説があった。大学生の話だ。その小説の中で、社会は砂漠のようなものだ、と例えられていた。目指す場所がどちらかもわからず、オアシスがどこにあるかもわからない。そんな砂漠の中を、僕たちは歩くしかないのだ、と。

本は読むたびに表情を変える。自分が成長するにつれて、違う受け取り方ができる。そんなことを言う本好きの人がいた。確かにそうかもしれない。わかったつもりでいても、わかっていないことは多い。著者の本当の気持ちなんて、いつになってもわからないかもしれない。

5年前の僕は砂漠にいたようなものだ。今も僕は砂漠にいるようなものだ。だけど、ここは5年前とは別の砂漠のようにも思える。変わらないのは、どこかへ行かなくてはいけないということと、そのためには責任という荷物を背負わなくてはならないということだ。

足腰が弱っていないだろうか。気合いと根性は十分だろうか。オアシスについたところで、そこは目的地じゃない。いつまで歩き続ければいいかもわからない。それでも、僕らは覚悟を決めなくてはならない。

ここに定住するつもりがないなら、生きるために責任を負おう。時折逃げ出したくもなるけれど、僕たちはもう、子どもじゃない。それはきっと、誇らしいことだ。

少年の頃、泥だんごを磨いた。磨けば磨くほど、それは宝物のように、美しく思えた。

泥みたいな今の自分も、磨いてみたら好きになれるかなぁ。

知れば知るほど、自分が何も知らないということがわかってくる。この事実はずっと前から知っていた。しかしそれさえも知った気になっていただけなのだ。

自分の成長の遅さに嫌気がさす。でも、それに気付くことができたというだけでも一歩前進だ。自分には時間が残されていないということも、あらためて 自分自身に言い聞かせよう。いつまでもここにいるわけにはいかない。

生きていくためには働くなり何なりしてお金を得なくてはいけなくて、その中で自分自身の目指す場所に向けて、目指す自分に向けて歩を進めなくてはならない。成長しなくてはならない。一種の強迫観念のようなこの思いは、糧にもなる。だから、ちゃんと向き合っていこうと思う。日々の中で、苦しくても成長していこうと思う。どれだけ変わっていけるかわからないけれど、少しずつでも、もっと、変わらなくてはならない。今と違う場所に行くには、今と違う景色を見るには、変わらなくてはならない。

周りに目を向けると、まるで天才ばかりいるような気がしてくる。僕なんかとてもじゃないが、足元にも及ばない。でも、だからこそ、這い上がってやろう。 今はまだ周回遅れかもしれない。だけどここから、追いついてやろう。みんなが必死に走るなら、それ以上に必死に走ればいい。僕が一つ負けないことがあるとしたら、それは諦めの悪さかもしれない。いつだって可能性がないと思ったことはない。今までだって、周囲の反対を無視して生きてきた。自分自身が無理だと思うことも、冷静な自己分析を無視してやってきた。今からだってきっと、もっと遠くへ行ける。

でも結局、自信がないからこんな風に言葉を連ねてごまかすんだ。それでもいい。何もしないよりは、何かしら動いたほうがいい。ヘミングウェイは、動きと行動を混同してはならない、と書いた。僕には動きと行動の違いなんてわからない。わからないけど、それでも動くことにするよ。誰かに無駄だと言われて本当に無駄だったことなんて、ない。

いつから全力疾走しない人間になったんだ?

今日は暑かった。なので、河原で全力疾走してみた。

世の中のいろいろは、変わらないように見えても変わっていく。

30メートルほどの道を本気で走ったら、すぐに息が上がって、久々に心臓の悲鳴を聞いた。
僕の身体も、日々変わっていく。思ったより衰えている。

でも、これでいい。変わったことを受け止めて、失くしたものを受け容れて、それからまた進めばいいのだ。きっと。

半年ぶりに家族と会って、こうして顔を合わせるのがあと何回かと数えてみたり、あるいは、仕事を始めた頃のことを思い出して、あの頃は全力で走っていたかなんて振り返ってみたりしている。

今と過去が違うから、今と未来も違うと思える。

ここから、また走り出そう。またいつかこの気持ちを忘れても、また思い出そう。

ウサギとカメの童話では、カメが勝つらしい。でもカメのような人はたぶん世の中では希少で、多くの人はおそらく、怠けても大丈夫と思っているウサギか、つい怠けてしまうウサギか、自分をウサギと思ってるカメか、怠け者のカメだ。

僕もその中のひとりだけど、とりあえず、少しだけ、全力で走ってみよう。一歩でも前へ。

働こう。寝よう。暁はそのうちやってくるはず。

世間はゴールデンウィークだ。今日は穏やかな春の陽気で気分が良く、このゴールデンウィークという言葉の響きも耳に心地がいい。

仕事にも少し疲れてきたから、調べごとのついでにネットサーフィンをしてから気分転換にブログを書こうと思った。

最近は仕事が楽しい。厳密に言えば、仕事が楽しいのではなく、そこで得られる自己成長や学びが僕を楽しくさせるのだ。今の仕事は収入にもすぐには繋がらないし、誰の役にたつとも限らないもので、それでも何かに繋がっていくと思えるものだ。足踏みではなく、前進だと思える何かで、だから楽しい。

いつもいつも中途半端に生きてきた。春休みも夏休みも大抵はダラダラと過ごす。それか休みがない。たぶん、今の若い人たちに多いであろう症状の一つに、物事に真剣になれない、熱くなれないというものがある。僕がそうだ。

何かにはまっても、マイブームのようなものがあっても、あるいは誰かに強制されても、心の底から真剣に打ち込む対象というのはなかった。どこかで手を抜いたり、妥協したりしている。
本気になるのがカッコ悪いとか、そんなことを思っているわけではない。むしろ、本気になれる人を尊敬もするし、羨んでいる。自分もできることならそうなりたい、と。
でも、僕たちは見つけることができない。自分を変えるほどの強い何か、本気になるための意味や意義を、見いだせない。

僕は寝ることが好きで、夜はできることなら10時間寝ていたい。でも、ずっと寝ていると、例えば14時間くらい寝ていると、もうそろそろ起きようかと思える。

同じように、見つからないものも、いつかふと目にはいるのではないか、という気がしている。探すのをやめた探し物が出てくるみたいに。

それまでは、何か未来に繋がりそうと思える仕事をしていこうと思う。

Mr.ChildrenのくるみのMVを誰かにぜひ見てもらいたいという話。

こんにちは。
僕は今日、打ち合わせの後に自宅で仕事をしていて、さっきまで好きな曲とかを口ずさんで過ごしていた。

ふとMr.ChildrenのくるみのMVが久々に見たくなって、YouTubeで見てみたら案の定感動してめっちゃ泣けて泣けて。あんなの反則だよ、絶対泣くにきまってる。

はー音楽って素敵だなぁ、って思いながら余韻に浸りながら、この感動を誰かにおすそ分けしたいなぁなんて思ってこれを書いてる。

でも、ネットの広い海の中でこのサイトは小さな貝殻ほどの存在でしかないわけで。
つまり、誰かがこんな駄文を読んでくれたらそれは奇跡だ。奇跡に乾杯。

それでは、Mr.Childrenで「くるみ」です。どうぞ。


Mr.Children「くるみ」Music Video

MacBookAirをクラムシェルで使い始めたのでVGA 変換アダプタとかWindowsキーボードとかのポエム

今日はあまり天気が良くない。僕は太陽が眩しいという理由で何かするほどではないけれど、それなりにそういった類の影響を受けて日々を過ごしている。本当はカミュは読んだことがないので、この例えは間違っているかもしれないが。

最近肩周りと腰が痛い。MacBookAirのせいだ。

僕にはひとつの悩みがあった。デスクトップPC(Windows)とノートPC(Mac)の両方を持っているが、ノートPCの方が何をするにも処理が早く、使い勝手がいいのだ。でもノートは首や腰に負担がかかる。

クラムシェルを使う。簡単すぎる。Appleのせいだ。

MacBookAirにはクラムシェルという機能があるのは知っていた。外部モニターに接続して使用する方法だ。 調べてみると、特別な設定などは必要なく、思った以上に簡単にできることがわかった。

主な使用方法は次の通り。だいたいどこのブログでも詳しく画像付きで紹介している。

  1. MacBookAirを外部ディスプレイに接続
  2. MacBookAirにキーボードとマウスを接続
  3. MacBookAirの画面を閉じる

以上。繋げるだけ。

ふと思うのだけど、大抵の「〜だけ。」というのはそんなにだけじゃないよね。すごく難しいことが多い。なんなら東大に合格するのだって、勉強するだけでいい。人並みに生きるためには、40年真面目に必死に働くだけでいい。僕にはとてもできない。世の中にはすごい人が多い。
僕にできることなんて、いつもの喫茶店でコーヒーを飲みながら君を待ってるだけ。という歌があったけどそれだって難易度高い。いつもの喫茶店もなければ待つ君もいない。

でもクラムシェルを使うのは簡単。これってすごいことだ。

VGA変換アダプタは1日で届いた。Amazonのせい。

ありがとうAmazon。ありがとう配達員さん。

デスクトップで使っているディスプレイにMacBookAirを接続しようと思った。端子がVGAだった。変換アダプタを買うことにした。
↓これ

安かった。799円。

キーボードとマウスを繋げる。

接続に関しては特に書くこともない。USB接続。
僕らが裏表のない人に憧れるのは、USBのせいだ。たぶん。

裏表がないのはいいことかもしれないけど、実際はそれほど魅力的ではない。

キーボードの文字配置が違う。OSのせい。

Windows用の外付けキーボードは、そのままではMacでは使いづらい。 Karabiner-Erementsというキー設定変更を行えるソフトを使用して、クラムシェル使用時のみWindowsキーボードの配置に設定をあわせてやると、問題なく使えるようになる。製作者様に感謝。

ジョブズのせい。

こんなエントリーを書いたのは、きっとジョブズのせいだ。人としてどうかは知らないけれど、やっぱり能力のある人はかっこいい。

映画「スティーブ・ジョブズ」を1時間ほど観た後だからか、手元にあるPCやiPhoneやインターネットについて考えるだけでなんだか感慨深いものがある。
だいたいのことは他のブログに載っている。それは、個人が情報発信を自由に行える時代が、確かにここにあるということだ。

僕が初めて触れた個人用の電子機器は、たぶんゲームボーイだと思う。幼い頃、その機会の中にはもう一つの世界があるようで、とてもわくわくした。
大人になって、パソコンやスマホからインターネットに触れるようになった。そこにはまるで現実と同じように大きな世界があるように思えて、今でも、わくわくする。

そこにはたぶん、新しい出会いがあるだけ。 僕が未来に夢を見てしまうのは、きっとこの世界のせいだ。

午後5時の怠惰スパイラル

最近は人と会うことも減ったし外に出ることさえ減ってきた。こんな生活はよくないと思うけれど、だからと言って変える方法が思いつくわけでもない。変える気があるわけでもない。困ったものだ。

考える時間が減っている。目の前の仕事や好きな音楽を聴くことに夢中で、自分の思考と向き合う時間が減っている。これはよくない傾向で、だから何かしなきゃいけない。
これから先のことを考えなくてはいけない。誰も先の道を示してはくれないのだから、自分で自分の行く道は定めなくてはならない。

真剣に生きていないのだ。ギリギリで生きていないからだ。必死に考えずとも、なんとなくまだ生きていけると思っていて、自分を甘やかす。

少し前に、締め切りに関する心理についてのTEDを聞いた。夏休みの宿題を夏休み後半まで手をつけないのは多くの人が経験することだ。僕は夏休みが終わってから慌て出す子供だった。

世の中は大雑把に見れば多分公平で、それは怠け者には厳しいということで。なんか自分の怠け癖が嫌になって気分転換をしようと思ったのだけれど、気分転換にも色々な障害がある。お金がなくてもできる僕なりの気分転換は走ることくらいで、でも最近は花粉のせいで全く走らなくなってしまった。図書館に行けば仕事に関する本にしか興味が持てず、気分転換にならない。小説を読むのは飽きた。学問的な本を読むのも一時期は好きだったが、すごく疲れるので今は嫌だ。

動かないせいか食事もあまりおいしくない。睡眠の質も低い。だから余計に日中は外に出る気が起きない。完全に怠惰スパイラル。

こんな日もあるさ。深呼吸のようなため息をついてから、時間が解決してくれることを祈る。
とりあえず僕が今日不甲斐なく生きていたという記録をここに残す。とりあえずまた、仕事がんばろ。