花びらを数える日々

チラシの裏、ときどき星の屑

面白くなかった映画のことを初めて書く/ギャラクシー街道

ギャラクシー街道を観た。面白くなかった。そのことについて、書き残しておこうと思う。

僕は大人になるにつれて、色々な映画を観るようになった。
昔は苦手だった難しいストーリーも、流行りのアニメーションも、少し古い白黒の映画も、それぞれに良さがあって、好きだと思えるようになった。

三谷幸喜監督の作品が好きだ。
高校生の頃から、唯一しっかり名前を覚えている監督・脚本家でもある。大体の映画作品は、残念なことに映画館ではなくテレビで観てしまったのだけれど。

だから、レンタルショップでCDを借りる度に僕は思っていたのだ。
時間と心に余裕がある週末が来たら、あのギャラクシー街道を見てみよう、と。

僕は批判とかが好きじゃない。何かを悪くいうのは簡単なことじゃない。
僕が嫌いなものを好きな人だっているし、顔を知らないからといってその人たちを傷つけたくない。

それでも。

面白くなかった。本当に。

あるいは、期待しすぎたのかもしれない。

今まで観た映画は、例えば古かったりして面白くないと感じた映画でも、後から当時の時代背景を学べばすごく意味のある内容だったり、工夫が凝らされていたり、楽しむことができた。
ストーリーの大筋が平坦でも、そこに生きる人々に魅力が溢れていたり、設定が練られていたり、作る人たちの意欲とかが感じられた気がした。

でも残念ながら僕は、ギャラクシー街道にそうした面白みを感じることができなかった。
キャストは豪華だったし、絵は温かな味わいがあって良かったけれど、、

面白くなかった映画のことを何かに書き残すのは初めてのことで、この映画は僕が出会った映画の中ではおそらくワーストで、ある意味それこそが特別なことなんだと思う。

もしかしたら。人生で一番辛いときとかには、こういう映画が沁みるのかもしれない。
それか、僕がもっと大人になったら、面白さがわかるのかもしれない。

でも、今の僕にとってはまったく面白くない映画だった。
そして、それを誰かに伝えたくなる映画だった。

読んだ本の記録に「読書管理ビブリア」がいい感じという話

最近は読書を習慣づけたく、毎日30分本を読むようにしている。
すると、モチベーションを高めるためにも、読んだ本の記録を取りたいと考えるようになる。

そこで何かいいアプリがないかなーと探していたところ、「読書管理ビブリア」がかなりいい感じだったのでご紹介。 以下が公式サイト。

biblia-app.tumblr.com

読書管理に必要な機能

僕が読書管理アプリないしサービスに求める機能は以下の二点。

  • 以前に読んだ本がわかること
  • 読んだ際の所感が残せること

まず、僕の読書スタイルはつんどくに近く、同じような内容の本をまとめて読むことが多い。その方が、重複するポイントで重みを測れたり、あるいはそれぞれの違いを楽しんだりできて得だと思っている。
しかし一方で、似た内容の本をまとめて読むと、個々の本が記憶に残りづらく、後になってから「この本読んだっけ?」となることがよくある。
そして再読し始めてから、「あ、これ前に読んだ本だ」と気がつく。それはそれで楽しいのだけれど、やっちまった感が拭えないのだ。

もう一つ。反対に、意図的な読み直しについて。本を読む楽しみの一つは、読んだ時々によってその内容から受ける印象や意味が異なる、というところにあると思う。つまりは読み返す楽しみだ。
良い本に出会ったとき僕は、数年後にまたその本を読むことを想像して嬉しくなる。そのとき僕はどんな風に感じるのだろう。懐かしさなのか、普遍性なのか、新鮮さなのか……。

例えば昔好きだった歌を今になって聴くと、違った良さに気がつくことがある。本も同じで、読むたびに違う表情を見せてくれる。
だから、今その一冊の本を読んで感じたことを、ほんの一行でも一言でもいいから残しておきたい。それは未来の自分へのプレゼントになる。

読んだ本を簡単に記録できて、少しばかりの感想やメモを残せて、数年後も使い続けたいと思えるツールが欲しい。 そんな希望をばっちり満たしてくれるアプリが、「読書管理ビブリア」でした。

長所と短所

個人的に感じた、「読書管理ビブリア」のいいところと悪いところ。悪いところに関してはほぼわがままである。

いいところ

  • デザインが良い。見やすく心地いい
  • 動作がサクサク。使用していてストレスがない
  • スキャンがスムーズ
  • 外部サービスへの連携が充実
  • バックアップを作成できる
  • 重複登録を指摘してくれる
  • 無料で広告がない

いやー、これ無料ってすごい。経済成長様様ですね(謎)
全体のデザインはシンプルで見やすく、使い続けるにあたって飽きたりくどくなったりしない感じで好み。
特にいいなって思ったのは、重複登録を指摘してくれる点。あとは、その書籍をカーリルで検索できるといった外部サービスのサポートも嬉しい。 あとは他にも、各書籍について「メモ」(バーコードスキャンによる登録で自動的に書籍情報が入力される)と「感想」の二つの記入欄が用意されているのも地味にポイント高い。本を読む人のかゆいところがわかってるなぁって感じる。

悪いところ

一応もう一度言っておこう、悪いところに関してはほぼわがままである。

  • iOSでしか使えない
  • バックアップのサポートがDropBoxのみ
  • 登録時にスキャンを選ぶワンステップが残念

iOSでしか使えない、というのはかなりネックかも。パソコンから感想を打ち込みたかったり、そのうちAndroidに乗り換えようと思っている僕にとってはつらい。
デベロッパーが個人の方のようなので仕方ない気もする。到底文句は言えないが、思いっきりわがままを言わせてもらえば、有料買い切りにして資金集めて他のプラットフォームで使えるようにしてくれたりしないものだろうか……。

あとはすっごい細かいところで、バーコード登録する際に、登録→バーコードスキャン、と2タップするのが若干手間。スキャンをデフォルトにして1タップにしてくれてたらなお素晴らしかった。

大企業のアプリとかではないがために、今後の更新やサポートなど不安な点は若干ありますが、それを補って余りある有用さを持った素敵なアプリだと思います。賢者かわいいし。

とりあえず、ようやくBookEverから乗り換えました。。
生活に関するメモ等は全部Evernoteに、と一時期考えていたのだけれど、やはり餅は餅屋というか、管理するものごとにツールを分けるのが最近の傾向なのかな、とも思ったり。

家計簿に見る宇宙。

家計簿をつけている。
家計簿といっても、出金と入金の額と内容の概要を記すだけの簡単なものだ。

今財布の残高を確かめてみたら、そこには840円の誤差があった。財布の中身の方が少ない。

僕はなぜだか、人生の大いなる神秘を発見した気分でいる。

840円の使途不明金。そこにはいくつかの謎がある。

現代において、840円というお金でできることは極めて限定的だ。
何か大きな買い物をするには足りないし、ちょっとしたエンタメでももう少しお金がかかる。

僕の生活で840円を使うタイミングを考えても、コンビニで何かお菓子を買うとか、飲み物を買うとか、そのくらいしか思いつかない。あるいはヒトカラとか? ここ一年は行った覚えが無い。

しかも840円というのは半端な金額だ。消費税は現在8%。832円ならまだわかるが840円だ。さっぱりわからない。

何かもっと大きな出入金を記録する際に金額にミスがあった、という可能性はあるが、それも極めて低い。大きな金額であればあるほど僕はその数値を確認するし、小さい金額なら840円も違えば気がつくはずなのだ。

謎は深まるばかりである。

しかし、こうも思う。人生はわからないことがあった方が面白い。
僕たちが宇宙や未来に憧れ、恋や物語の世界に惹かれるのは、その先がわからないからだ。ならば使途不明金840円は、人生における一つの神秘を購入した代金というわけだ。

秋も深まるばかりである。

パーソナリティーを温ね、優しさを知る / 自分の価値を最大にするハーバードの心理学講義

本を読んだ感想をだらだらと。内容についてはあまり触れていない読書ログ。今回はちょっと我ながらあまりにもなログになってしまったので、本は読んでもこの記事は読まないでほしい。 読んだ本は、「自分の価値を最大にするハーバードの心理学講義」。

自分の価値を最大にするハーバードの心理学講義

自分の価値を最大にするハーバードの心理学講義

素敵な内容の書籍だったので、くれぐれもこのブログを読んで買わないことを決意しないでほしい。

自分の偏りを知ることで、舵とりをしたい

さて。
あなたが何かを見たとき、あなたはどのように受け止め、思考し、行動選択するのだろう?
あるいは僕は、どうするのだろう?
そんなことをぼんやりと考えながら読み始めた。

僕は最近、人の思考と行動について興味がある。
自分が持つ思考の傾向や癖を把握し、理解することができれば、もっと正しい選択ができるのではないか、と思うのだ。

何が正しいかはわからないけど、右だったり左だったり、利己的だったり利他的だったり、白や黒といった軸は何にでも何かしらあるはずで、自分がそのどちらかに偏っているのならば、その偏りを正す、あるいは偏っていることをきちんと認識した上で偏ったままでいたい、と思う。

話は変わるけど、音楽の趣味嗜好は30代のうちに固定されてしまうらしい。そんな話題を耳にしてから、僕は東京事変をよく聞くようになった。幸いなことにまだ音楽の嗜好は固定されていないみたい。

何かを悪いと云うのはとても難しい 僕には簡単じゃないことだよ

大人になった今だからこそ、そんな透明人間になりたい、と願いはじめたのかもしれない。

人は皆人それぞれ

人の心と向き合ったことがある、という人はどのくらいいるものだろう。
自分の思考について、その傾向や癖について、正しく捉えてみようと試みたことのある人はどれだけいるだろう。

僕は人と人とは分かり合えないと思っている。それは同じ経験をしていない人に、その人の気持ちを真に理解することが不可能だと考えているから。
でも、理解できない・分かり合えないからこそ、想像力を働かせて慮ることが大事なのだと思っている。

心理学は、たぶんその助けになる。
色々な性質による分類やその傾向を知ることで、自分自身を知り、自分と他者の違いを知ることができる。その違いがどのようなものか知っていれば、自分と違う相手の考えや感じ方を予想・想像しやすくなる。

人は誰でも、あらゆる人と似ていて、一部の人と似ていて、誰にも似ていない。

この本では頻繁に、上記の引用文や「人によって価値観が異なる」ということが書かれていた。
色々な実験や調査に基づく心理学について書かれているが、それらの前提にある考えがこれなのかもしれない。

どのような性質も、良い面もあれば悪い面もある。そういうことが書かれていて、だから本書では自分の長所も短所も驚くほど指摘される。

人の性質は様々で、そのどれもが0か1かで判断できるものではない。曰く、パーソナリティはタイプではなく尺度で判断するものなのだそう。
当然のことなのだけれど、僕はそれをしばしば忘れてしまう。多分、多くの人が同じように忘れてしまうことだと思う。
違いがあることと、違いの内容をもっと幼いうちから知っておけたら、自分に合わない人間と接するときももっと優しくなれたのではないか、とも思う。

そんな感じで、少し優しくなれた気がする秋の夜。うまく説明できないのはまだ理解と記憶が定着していないせいだ、と思うので、寝かせることにしよう。

私と僕、さよならとまたね

昔、好きな作家や小説について人と話したことがある。
こういう文体が好き、とか、そういう話。
今では特にこだわりもなくなって、結局人間と同じで総合的に作品を評価するのだ、という結論を抱いている。

ふと、個人として書く文章において好き嫌いがはっきりしていることがあったので、なんとなく書いておこうと思う。

一人称、私と僕

一人称に何を使うか、という日本人共通の問題がある。
これについて、個人としてこの場でどちらを使うか考える。

私、僕、俺、自分、わたくし、我輩、某、拙者、などなど。個人的には我輩とかそれがしとか拙者とか使いたい気分のときはたまにあるけど、一般的な社会生活を送るにあたってなかなか難しいことのように思う。 普段使うのは、私、僕、俺、くらいだ。一般的な男性と同じく、相手によって使い分ける。 でも、対象が定まらないこういう文章の場合、私でも僕でもよく、少し困る。

私、という一人称は少しかしこまった感じがする。僕、という一人称には若干の甘えを感じる。
そういう面では私を使いたいのだけれど、やはり僕という音の響きも捨てがたい。

女性シンガーが魅力的に見える要因の一つは、歌詞に僕という一人称が入っていることだ、という持論がある。
私は僕が好きなのだ。口にしたときや耳にしたとき、あるいは脳内で再生したときに、ぼくという2音の響きが心地よく感じる。
私という音からは都会的なセクシーさを感じるが、僕からは純朴であまり擦れていない感じを受ける。
前者に憧れはするが、もう少し年を取ってからにしよう、と思う。よってこれからは僕を使おう。

さよならとまたね

私と僕問題に似たもので、さよならとまたね問題、がある。
さよならもまたねも別れの挨拶だが、この二つには明確な違いがある。

僕は、締めの言葉に「またね」を使う人がいたらそれだけで好意を抱く。
どんな出会いであっても、それは何かの意味があるもので、大切なものだ。僕は人と会うとき、会うという行為をそんな風に思っている。 ほとんどの人とは、一度会ったらそれっきりでもう二度と会わなかったりする。そうでなくても、人と会うときはそれが最後になるかもしれない、と思う。親しい間柄であっても、仕事上の付き合いでも。 一期一会、という言葉があるが、その考え方を僕は大事に思う。でも、だからこそまた会いたいと思うし、その一度を最後にしたくないと思う。 その思いが、またねという言葉に繋がる。それは約束ではないが、僕にとっての願いなのだ。

そんなわけで、さよならよりはまたねを使おう、と思っているし、できれば多くの人が僕にさよならではなくまたねと言ってくれたらいいな、なんてことを思う。

隣の芝は青く見えるが、それは本当に青いのか。

隣人と常日頃から切磋琢磨している、という人はおそらく多くはない。
今日テレビ番組でやっていたが、ある調査によるとライバルと呼べる相手が身近にいる人の割合は十数パーセントにすぎないらしい。

日々生きていると、年を重ねるにつれ、周りの芝が青く見えることがある。
自分が立ち止まり、足踏みをし、三歩進んでは三歩下がるような暮らしをしている一方で、彼らはずっと先を駆けている。そんな風に感じてしまうことがある。
追いかけようというモチベーションに繋がるうちはまだいいが、その背中があまりにも遠くなれば、いつしか追う気力も無くなってしまう。それはまずい。

適度な距離を保つことが必要だ。
そのためには、たまには自尊心を育ててやらないといけない。
そこで、隣の芝は青く見える問題に対して、強硬な姿勢を取ることにした。つまりその青さを否定しようというのだ。いや、確かに青い芝の隣人はいる。しかしそれが全てではないはずだ。

見ているのは本当に芝か

私たちは隣人について多くを知らない。
友人も、家族も、あるいは自身のことでさえ、その全てが見えているわけではない。

もしかしたら、私が青いと思ったそれは、芝ではなく塀かもしれないし、屋根かもしれない。窓ガラスに映る空だった可能性もある。
つまり、それは私が欲しているものとはまるで違うものかもしれない、ということ。なお、青々しいことの比喩としての青と色彩としての青を同列に扱うが気にしないこととする。

青い窓は綺麗に見える。でも、空が映るかどうかはどちらから光が差しているかの問題であり、彼らだけのものじゃない。芝と違って、窓を磨けば私にだってすぐ得られるものだ。ならば比べる必要もない。何より窓に映る空が美しいと思うのなら、直接空を見ればいい。
翻って、簡単に手に入るものやより優れたものが他にある場合、それを羨む必要はない。また、羨むのは青い芝が本当に欲しいからこそであり、何が自分にとっての芝かを見極めるべきだ。

それは相対的な青さか、絶対的な青さか

目に映るのが本当に芝だったとする。自分の芝と比べて、隣人の芝は青い。とても青い。ではどうしよう?

そりゃあ羨む。妬んだり僻んだりすることもあるかもしれない。でもその前に少し冷静になろう。
彼らの芝は本当に青いのだろうか。もしそれが本当の青さでないのなら、その芝と比べるのはナンセンスだ。

数年前に、青にも黒にも見える服、みたいな画像が話題になったことがあった。うろ覚えだが。たしかモニターと周囲の色によって、どちらにも見えうる、といったものだった。うろ覚えだが。
周囲の色によって対象の色が異なって見える、という現象がある。自分の芝と相手の芝を見比べた結果相手の芝が青く見えたとしても、それは本当は青じゃなく黒かもしれない。あるいは、ひどくくすんだ青かもしれない。
例えば、自分が借金苦に悩んでいるときは、一文無しの相手も羨ましく思える可能性が高い。そこで羨んだり妬んだりしたところで、どちらも不幸になりそうではないか、という話だ。

妬み僻みはまぁ置いておくとして、少なくとも羨むという感情は悪い方向に作用するとは限らない。
それは前進するためのエネルギーになり得るし、悪いものじゃない。でも、何かを目指すのであれば、例えばそれが芝の青さならば、それは本当の青さであるべきと思う。目指した先が実は根腐れしていました、とかではあまりにも悲しい。

極論を言えば絶対的なものなどこの世にないのかもしれないが、絶対的な青さだと思えるようなもの、くらいのアバウトさであればきっと存在するはず。
そういうものをもし隣人が持っていたならば、その育て方を教えてもらおう。

そもそもの話

そもそも、という言葉はずるい。カードの大富豪や大貧民で言うところの「革命」のようなものだ。ルールを覆す。それでも便利だから使う。実に人間らしい。

そもそも、隣の芝が青かったとして、何が悪いのか。と、これを書いていて思った。本末転倒だ。
隣の芝が青くて、それがいいと思ったなら、自分の芝も青くしよう。頑張ろう。以上。

美しい想いは、美しいというだけで価値がある

いろいろなことを考えていると、どうしても気持ちが暗くなりがちだ。 それは、いろんな絵具を混ぜると濁ってしまうのに似ている。

ひとつひとつは綺麗なはずだ。根拠はないけれど、そう思う。 この世界には沢山の美しいものがあって、僕はそれを数えて生きていきたいのだ。

今日はたまらなく悲しくなって、だから美しいと思ったものに目を向け、文字にしておこうと思った。

少し前のこと。
もう七夕は過ぎてしまったけれど、一昨日まで街中のあちこちには短冊が掛けられていて、僕はそこに描かれている願いをふと盗み見てしまったりしていた。 内容は覚えていない。けれどそこにあった願いは、書いた本人以外のことを願ったものだった。一年に一度、願いが叶うとされる伝説の日に、自分の欲ではなく、誰かを幸せにすることを願う人がこの世界には沢山いるのだ。
そんなことを考えると、僕はとても嬉しくなってしまう。油断すると涙まで出そうになる。僕も願い事を書いた本人でさえも、願いが本当に叶うなんて信じてはいないだろうに。

実益の伴わない願いや想いなんて、意味がないと切り捨てられることもある。 でも、自分が空っぽに思えた夜なんかには、そういうものがたまらなく美しく見える。

明日からまた頑張ろう。