読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

花びらを数える日々

チラシの裏、ときどき星の屑

Mr.ChildrenのくるみのMVを誰かにぜひ見てもらいたいという話。

こんにちは。
僕は今日、打ち合わせの後に自宅で仕事をしていて、さっきまで好きな曲とかを口ずさんで過ごしていた。

ふとMr.ChildrenのくるみのMVが久々に見たくなって、YouTubeで見てみたら案の定感動してめっちゃ泣けて泣けて。あんなの反則だよ、絶対泣くにきまってる。

はー音楽って素敵だなぁ、って思いながら余韻に浸りながら、この感動を誰かにおすそ分けしたいなぁなんて思ってこれを書いてる。

でも、ネットの広い海の中でこのサイトは小さな貝殻ほどの存在でしかないわけで。
つまり、誰かがこんな駄文を読んでくれたらそれは奇跡だ。奇跡に乾杯。

それでは、Mr.Childrenで「くるみ」です。どうぞ。


Mr.Children「くるみ」Music Video

MacBookAirをクラムシェルで使い始めたのでVGA 変換アダプタとかWindowsキーボードとかのポエム

今日はあまり天気が良くない。僕は太陽が眩しいという理由で何かするほどではないけれど、それなりにそういった類の影響を受けて日々を過ごしている。本当はカミュは読んだことがないので、この例えは間違っているかもしれないが。

最近肩周りと腰が痛い。MacBookAirのせいだ。

僕にはひとつの悩みがあった。デスクトップPC(Windows)とノートPC(Mac)の両方を持っているが、ノートPCの方が何をするにも処理が早く、使い勝手がいいのだ。でもノートは首や腰に負担がかかる。

クラムシェルを使う。簡単すぎる。Appleのせいだ。

MacBookAirにはクラムシェルという機能があるのは知っていた。外部モニターに接続して使用する方法だ。 調べてみると、特別な設定などは必要なく、思った以上に簡単にできることがわかった。

主な使用方法は次の通り。だいたいどこのブログでも詳しく画像付きで紹介している。

  1. MacBookAirを外部ディスプレイに接続
  2. MacBookAirにキーボードとマウスを接続
  3. MacBookAirの画面を閉じる

以上。繋げるだけ。

ふと思うのだけど、大抵の「〜だけ。」というのはそんなにだけじゃないよね。すごく難しいことが多い。なんなら東大に合格するのだって、勉強するだけでいい。人並みに生きるためには、40年真面目に必死に働くだけでいい。僕にはとてもできない。世の中にはすごい人が多い。
僕にできることなんて、いつもの喫茶店でコーヒーを飲みながら君を待ってるだけ。という歌があったけどそれだって難易度高い。いつもの喫茶店もなければ待つ君もいない。

でもクラムシェルを使うのは簡単。これってすごいことだ。

VGA変換アダプタは1日で届いた。Amazonのせい。

ありがとうAmazon。ありがとう配達員さん。

デスクトップで使っているディスプレイにMacBookAirを接続しようと思った。端子がVGAだった。変換アダプタを買うことにした。
↓これ

安かった。799円。

キーボードとマウスを繋げる。

接続に関しては特に書くこともない。USB接続。
僕らが裏表のない人に憧れるのは、USBのせいだ。たぶん。

裏表がないのはいいことかもしれないけど、実際はそれほど魅力的ではない。

キーボードの文字配置が違う。OSのせい。

Windows用の外付けキーボードは、そのままではMacでは使いづらい。 Karabiner-Erementsというキー設定変更を行えるソフトを使用して、クラムシェル使用時のみWindowsキーボードの配置に設定をあわせてやると、問題なく使えるようになる。製作者様に感謝。

ジョブズのせい。

こんなエントリーを書いたのは、きっとジョブズのせいだ。人としてどうかは知らないけれど、やっぱり能力のある人はかっこいい。

映画「スティーブ・ジョブズ」を1時間ほど観た後だからか、手元にあるPCやiPhoneやインターネットについて考えるだけでなんだか感慨深いものがある。
だいたいのことは他のブログに載っている。それは、個人が情報発信を自由に行える時代が、確かにここにあるということだ。

僕が初めて触れた個人用の電子機器は、たぶんゲームボーイだと思う。幼い頃、その機会の中にはもう一つの世界があるようで、とてもわくわくした。
大人になって、パソコンやスマホからインターネットに触れるようになった。そこにはまるで現実と同じように大きな世界があるように思えて、今でも、わくわくする。

そこにはたぶん、新しい出会いがあるだけ。 僕が未来に夢を見てしまうのは、きっとこの世界のせいだ。

午後5時の怠惰スパイラル

最近は人と会うことも減ったし外に出ることさえ減ってきた。こんな生活はよくないと思うけれど、だからと言って変える方法が思いつくわけでもない。変える気があるわけでもない。困ったものだ。

考える時間が減っている。目の前の仕事や好きな音楽を聴くことに夢中で、自分の思考と向き合う時間が減っている。これはよくない傾向で、だから何かしなきゃいけない。
これから先のことを考えなくてはいけない。誰も先の道を示してはくれないのだから、自分で自分の行く道は定めなくてはならない。

真剣に生きていないのだ。ギリギリで生きていないからだ。必死に考えずとも、なんとなくまだ生きていけると思っていて、自分を甘やかす。

少し前に、締め切りに関する心理についてのTEDを聞いた。夏休みの宿題を夏休み後半まで手をつけないのは多くの人が経験することだ。僕は夏休みが終わってから慌て出す子供だった。

世の中は大雑把に見れば多分公平で、それは怠け者には厳しいということで。なんか自分の怠け癖が嫌になって気分転換をしようと思ったのだけれど、気分転換にも色々な障害がある。お金がなくてもできる僕なりの気分転換は走ることくらいで、でも最近は花粉のせいで全く走らなくなってしまった。図書館に行けば仕事に関する本にしか興味が持てず、気分転換にならない。小説を読むのは飽きた。学問的な本を読むのも一時期は好きだったが、すごく疲れるので今は嫌だ。

動かないせいか食事もあまりおいしくない。睡眠の質も低い。だから余計に日中は外に出る気が起きない。完全に怠惰スパイラル。

こんな日もあるさ。深呼吸のようなため息をついてから、時間が解決してくれることを祈る。
とりあえず僕が今日不甲斐なく生きていたという記録をここに残す。とりあえずまた、仕事がんばろ。

土日休みに憧れるのは、休みたいからじゃない。

SHISHAMOの「明日も」が素敵。柔らかい声と明るいテンポと、前向きな歌詞が気持ちいい。

平日の仕事や学校、週末の安らぎや楽しみなんていうのは、きっとありふれたテーマで、いろんなアーティストが歌っている。
生活って結局はルーチンで、だけどその中にある、普通の生活における苦労や努力や、幸せや喜びは、どれも本当は本当に美しいものなんだと思う。

週末に休みがなくなっても、やっぱり僕にとって週末は特別なもので、だから週末には聴きたくなる歌がたくさんある。

土日が休みだったら、もっと最高な気分でこの歌を聴けるんじゃないかって思うんだ。 土日休みに憧れるのは、別に休みたいからじゃない。好きな歌を、もっと好きになりたいからなのかも。

Google Apps Scriptの1日の利用制限が回復するのはいつ?

(二度目の追記)
このエントリーは役に立たない。


たまには、誰かの役に立ちそうなことを。

最近はGoogle Apps Script とSpreadsheetを毎日のようにいじっているのだけど、昨日、ついに1日の利用上限を超えてしまい、使用に制限をかけられてしまった。

GASで制限を受けるとどうなる?

スクリプトがエラーを返すようになる。
以降は使用できなくなる。

制限の解除は午前9時?…ではありませんでした(追記)

昨日の夜10時ごろ制限を受けて、でも使いたくてうずうずしていたのだけど、ネットを調べてみてもいつ回復するかがわからない。

今朝9時過ぎに使ったときは制限が解除されていたから、制限を受けてから24時間ではなく、決まった時間にリセットされると考えられる。

だとしたら、日本時間の24時か、標準時24時、つまり日本の午前9時のどちらかだと予想。 でもGoogleだから、たぶん後者だと思う。


(追記)
と思ったのだけれど、違いました。
トリガーで起動している処理がまたしても1日の制限を超えてしまったのだけど、今回は午前9時をまたいで前後でエラーが発生。 制限解除が9時ではないことは確かになった。

対策

大抵のことは、時間と睡眠が解決してくれる。寝よう。

あるいは、上限を超える処理というのは、そもそもGASにさせる仕事じゃないかも。見直そう。
前提として、とりあえずコードの無駄もなくすこと。

それでも使うしかないなら、G Suiteの上位プランを申し込もう。
独自ドメインが必要なのがネックだけどね。

おわりに

親愛なるGoogleに、心からの敬意と感謝を。
負荷かけてごめんなさい。

自己観察日記 #0

今日はブログの整理をしている。下書きに以下の文章が残っていて、せっかくだから削除せずにしておこうと思った。でも書き直したりする気も起きないから、そのまま公開してみる。へー、こんなこと考えてたんだ。結論は今でもわからないや。


今日は一日予定もなく、図書館や古本屋に行ったりした。 特に読みたい本もなく、読むべき本もわからず、今の僕に必要なのは自分自身と向き合う時間なのだろう、という結論に達した。

教養に関する本をパラパラとめくったりした。その本いわく、教養を学ぶことは、ジョブズがカリグラフィーを学んだことと近しいことだそうだ。いつ役に立つかはわからないが、それがあるから正しい判断をしたり、将来を見据えた行動をしたりできる。なんだか哲学の話みたいに聞こえる。

捉えどころのない物事については、僕は深く考えることができない。できないというのは正しくなく、実際にはできそうにない、というのが正しいのだろうけれど、挑戦しないということはできないことと同じだから、特に問題はない。我ながら面倒くさい、回りくどい書き方をする。ただ、頭の中が同じように回りくどい構造になっているのだ。ここでいう頭の中というのは思考のことだ。だから、仕方ないと思うことにする。

合理的な判断が常に正しいとは限らない。人の感情というのは非合理的なもので、僕たちは人だ。実に面倒だ。 クリスマスはもっと幸せな想像と妄想で飾られる日だと思っていた。僕はクリスチャンじゃないから、救われなくても仕方ないのだろうか。この辺りの解釈も、キリスト教についての知識があればまた変わるかもしれない。 学ぶことは知識を増やすことで、知識が増えれば多様な解釈やより理想的・平和的な解釈ができるようになる。教養を身につけるというのは、そういう意味に近いのかもしれない。僕には教養がないのでわからない。教養があれば、少なくともこのわからないことはなくすことができる。

明日から、今日から、どのように生きればいいのだろう。何が正しいかわからず、自分がどうするべきかもわからない。この状況は、砂漠にいるようなものだ。伊坂幸太郎の砂漠という小説を思い出す。社会は砂漠だ。

自己観察日記を始めようかと思う。自分を他者の視点で見ると、至らない点がたくさん見えるはずだ。それを直していけば、きっと立派な人間に近づける。それで僕はどうしたいんだろう。必死に生きて、その先にあるものは何だ?完璧な人間なんて誰が好きになるだろう?

書くことを嫌いにならないために、明日まで覚えておきたいこと。

好きなことを仕事にすると嫌いになる、という話を聞いたことがある。本当かどうかは知らない。嫌いになることもあれば、嫌いにならないこともあるのだと思う。世の中の物事は大抵そんな感じでどっちも正しい。僕はそんな曖昧さを好ましく思う。
僕にとって好きなことは何か、考えてみてもはっきりした答えは出てこないのだけれど、もしかしたら書くことがそうかもしれない。

仕事でもなくブログなんて書く人間は、ただの物好きかあるいは自己顕示欲の強い人なんだろう。という偏見を、僕はどこかに持っている気がする。でも、よくよく考えれば書くことは話すことと変わらないし、歌うこととも変わらないのだ。それは人が人らしくあるために必要な行動なのかもしれない。

僕はヒトカラが好きだ。自分の歌は好きじゃないけど、歌も、歌う人も好きだから。それと同じように、何かを書く人が好きだ。仕事であっても、個人的な日記であっても、考えたことや感じたことを言葉にして、それを紡いでいくという行為は美しいものだと思うから。

今の僕は、仕事で文章を書かなくてはいけない。だから文章術の本なんかを読み漁っているし、どのような見出しをつければ反応がいいかなんてことを考えたりもする。でも、それがちっとも楽しくない。内容は誰かの役に立つものにしているつもりだし、このブログよりもずっと意義があって読みやすい文章になっているとも思う。だけど、それを書いている僕は楽しくない。これが僕の最近の悩みだ。

きっと、考えないでいることが好きなのだ。感じるままに文字を連ねて、指先が自動的にタイピングして。誰の目にも触れず、誰の役にも立たないから、何の責任を負う必要もない。でも、本当にそれでいいのだろうか…。

どうせならお金になることをしたほうがいい。お金にならない行為なんて意味がない。趣味全般に言えることだけれど、まっとうな意見だ。何かを書きたいなら、WordPress独自ドメインでサイト作って、記事に広告でも貼ってやればいい。

ここまで書いて、わかった。効率を求めるとつまらなくなる。仕事なら効率を求めてしまうし、お金が絡めばもっと儲けたいと欲が出る。だからつまらなくなる。

この文章は何かを伝えたくて書いたわけじゃない。ただ自分の思考を脳から手を通じて画面にアウトプットしただけだ。でもあえてまとめるなら、次のようになる。

「書くことが好きなら、書くために書けばいいじゃん。」

ところで、「〜じゃん」というのは千葉の方言だと昔聞いたのだけれど、本当なのだろうか。信じがたい。