花びらを数える日々

チラシの裏、ときどき星の屑

全力で逃げるふりをする。

生きることは逃げることなのかもしれない。

あなたが働くのは、貧困や社会性の欠如から逃れるためではないだろうか。
あなたが本を読むのは、無知な自分や退屈な時間から逃げるためではないだろうか。
あなたが音楽を聴くのは、食事をするのは、夜眠るのは……。もしかしたら、全部何かから逃げているのではないか。

ふと自分にそう問いかけて、僕は否定することができなかった。

でも、生きることは立ち向かうことなのかもしれない。

あなたが働くのは、大切なものを守るためではないだろうか。
あなたが本を読むのは、新しい世界に足を踏み入れるためではないだろうか。
あなたが音楽を聴くのは、自分を奮い立たせるためかもしれない。食事も睡眠も、全部この世界で戦っていくためではないか。

そう自分に問いかけたとき、肯定できるようになりたい。
逃げた先にも苦難はある。逃げることはすなわち、その先にある苦難に立ち向かうことでもあるのだ。

結局は、物事を肯定的に捉えるか否定的に捉えるか、積極的に考えるか消極的に考えるかの違いでしかないのかもしれない。
いつだって事実は変わらず、変わるのは解釈だけだ。なら、今は逃避行でも悪くない。後から後悔のないように、全力で逃げるのも悪くない。

そんな風にごまかして、全力で明日に立ち向かおう。

いい人でいること。どうでもよくないこと。

いい人でいるべきか否か、それが問題だ。

僕は意識的にも無意識的にも、いい人であろうとしてしまう人間だ。
きっと、同じような人はこの世界に沢山いる。

最近、仕事でもプライベートでも、顔も知らない人に対していい人であろうとしすぎる自分に気がついた。自分の時間がなくなったり、精神的に疲れたりしてきたので、いい人でいることについて考えてみる。

異性からいい人と言われる場合、どうでもいい人という意味だ、という話をよく聞く。
いい、という言葉は曖昧だ。でも僕にとって、いい人でいるかどうかは、どうでもいいことではない。

なぜいい人でいたいのか、いい人でいるべきなのか

少し前に、いい人でいることをやめよう的な本が流行ったりした覚えがある。
とてももっともな話だ、と感じる。多分、同意する人も多かったのだろう。
しかしそれは、いい人であるということが自己犠牲の上に成り立つものである、という前提に基づいた考え方のように思う。
いい人でいるためには、本当に多少の我慢や無理をしていなくてはならないのだろうか。

何かの是非を考えるとき、メリットとデメリットを列挙すると分かりやすい。
だから先に、メリットとデメリットを並べてみる。

いい人でいるメリットは、次のようなものがある。

  • 自分の気分がいい
  • 周囲の誰かの気分がいい
  • 円滑な人間関係を育むことができる
  • 自分の評価が上がる場合がある

次に、いい人でいるデメリットは、次のようなものがある。

  • 自分が金銭的・物質的な損害を被る
  • 自分の時間が奪われる
  • 自分の価値が下がる恐れがある

なるほど、だんだんわかってきた。
いい人でいることは素晴らしいことだ。なんたって気分がいい。僕たちは今を気分良く過ごすために生きていると言っても過言ではないのだから、挙げられたメリットは十分に魅力的だ。

しかし、支払う代償も非常に大きい。なんたって時間ほど大事なものはない。
確かに、例えばメールをじっくり考えて返してくれる人のことを、僕はいい人だと感じる。その内容がどうでもいいものだったとしても。
自分のために時間や労力を割いてくれる人を、僕たちはいい人と感じるのかもしれない。

得られるメリットのためにデメリットを許容できるのであれば、いい人でいるべきだ。
許容できるかどうかは、きっと状況次第なのだろう。

いい人であるべきか、いい人をやめるべきか

状況次第、というのは便利な言葉で、大抵のことに当てはめることができる。
いい人でいるべきかどうかをより具体的に決めるために、三つの軸を定めよう。
状況、対象、行為の三つだ。

状況について。状況は、自分に時間を始めとする余裕があるかどうか、というものだ。
余裕があればいい人であろう。余裕がなければいい人でいることは諦めよう。

対象について。対象が誰か・自分にとってどのような存在か。
これは判断に悩む。相手が自分にとって大切な人物なら、考えるまでもなく僕たちはいい人でいるはずだ。
でも、相手がただの知人や見ず知らずの人だったらどうだろう。いや、相手が誰であろうと、できることならいい人でありたい。

行為について。その行為が自己満足で終わらないかどうか、考えてみよう。
単なる自己満足に過ぎないのなら、やめよう。本当に相手のためになるなら、迷わずいい人になろう。

まとめる。
自分に余裕があって、かつ相手のためになるなら、僕はいい人でいよう。
余裕がなかったり、ただの自己満足なら、いい人でいるのはやめよう。

だけどいつかは、誰にでもやさしい人になりたい。


ブルーハーツ 人にやさしく

レポートを書きたいとき、ブログを書く/お題「私がブログを書きたくなるとき」

今週のお題「私がブログを書きたくなるとき」

幼い頃、ポケモンのゲームをやった。楽しかった。
あれは確か、データの保存を「レポートをかく」ことで行うことができた。当時はレポートというものが何かを知らず意味がわからなかったけれど、今は納得できる。うまい表現だ。

目の前のことに行き詰まったとき、僕はブログを書きたくなる。

本当は、ブログでなくてもいい。ただ書くという行為ができればいい。だから、本当にしょうもない内容は、メモ帳に書き捨てる。でも、そのメモは捨てずに取っておく。

書くことで、今の自分を残しておくことができる

これから先の自分が、素晴らしい人間になろうと、あるいは素晴らしくダメな人間になろうと、書き残したブログやメモがあれば現時点の自分を思い出すことができる。そのときに感じていたこと、考えていたことを拾うことができる。

以前何かの本で読んだ話。目覚めは生のメタファーであり、眠りは死のメタファーである、という論があった。あれは哲学に関する本であったか。
日々を連続するものとして捉えるのではなく、生と死の繰り返しであると捉えるのならば、今日の自分が明日も同じであると証明することはできないし、同じである保証もない。

記憶という、自分を証明する確からしいものはあっても、それはすぐに薄れてしまう。僕は昨日食べたものを思い出すことができない。

だから、書くことで保存しておく。まるで「レポートをかく」だ。

「レポートをかく」

さて、お題は「私がブログを書きたくなるとき」だった。
先ほど、目の前のことに行き詰まったとき、と書いたけれど、これはもっと具体的に言うことができる。

つまりは、「レポート」を書きたくなったときだ。
それは、強敵を目の前にしたときや、少し疲れて休みたいとき。何かいいことがあった後や、これから起こることに胸が躍るとき。そんなとき、僕はブログを書きたくなる。

それは、多分バックアップを取ることにも似ている。
コレサワさんの「バックアップ」という曲が、まさに心境に近い。


コレサワ「バックアップ」【Music Video】

いい曲。素敵な音楽に出会ったときも、僕はブログを書きたくなる。

結果と経緯、どちらが大事か。

結果だけじゃなく経緯が大事なんだ、と僕が思う理由を書く。

その結果、すごくどうでもいい文章になった。これこそチラシの裏にふさわしい。
でも、これを書いた経緯を大事にしたい。

前提:結果>経緯

どれだけ経緯が立派でも、結果が伴わなくては意味がない。ビジネスなどではそれが常識的な価値観だ、と僕は思っている。
しかし、果たしてこれは正しいのか。

例えば:人間関係に置き換えてみる

僕は人が好きだ。だから別れが辛い。人と出会えばいつか必ず別れが訪れる。それなら、誰とも出会わないほうが幸せかも知れない。

僕は今、一つの悩みを抱えている。疎遠になってしまったが、また一度、会っておきたい人がいる。
でもその人は僕よりも半世紀長く生きていて、だから、仮にまた会うとすれば、いつか来るであろう別れも同時に覚悟しなくてはならない。
多分、会いたい気持ちが別れのつらさを上回ることはない。

人間関係における結果の判定を、その人との別れの時に行うのならば、結果はいつも望まないものになる。
僕が早くに他界なりすれば話は別だけど、卒業文集の長生きしそうな人ランカーである僕には、おそらくそれも難しい。
健康維持がもたらす結果が他者との別れを多く経験することなら、それも皮肉な話だ。

結論その1:結果<経緯

しかし、僕は人と出会うことが悲劇だとは思わない。思いたくない。
そのためには、結果だけではなく経緯を重んじる必要がある。
いつか別れが来るとしても、共に過ごした時間があればいいじゃないか。くっさ。

結論その2:状況による

ある物事には当てはまり、他の物事には当てはまらない、ということはよくある。
多分、結果と経緯どちらが大事かなどという話も、そうなのだろうと思う。

音楽と言葉と/今週のお題「私の癒やし」

今週のお題「私の癒やし」

音楽を聴くこと。
人の声が好きだから、歌詞はあったほうがいい。英語は苦手だから、歌詞は日本語がいい。

気分に合わせて、プレイリストを作る。いつもはiPhoneで音楽を聴いている。
プレイリストにはアートワークを設定して、どんな時に聞くかの一言を添えておく。いい気分の時に聞くプレイリストもあれば、反対に、嫌な気分の時に聞くためのプレイリストも作る。

そうしておくと、もし嫌なことがあっても、その日のための音楽がそこにある。
ぴったりのプレイリストがあると、ちょっと得した気分になれるし、好きな歌に励まされる。素晴らしくない?

これはいろんな人におすすめしたい。本当におすすめ。

もう一つの、励ましに近い癒やし

僕はたまに、どうしようもなく、自分の心が冷たくなるのを感じることがある。
努力なんて結局は報われず、成功や可能性なんて言葉は幻想に過ぎないのではないか、と。

仕事をしていても、思う。自分の仕事は無価値で、無意味で、ただ時間を浪費しているだけなのではないか。と。

今日もちょうど、そんなことを思っていた。このまま続けたところで、何の意味があるのだろうか。

癒しとは、多分、心を温めてくれるもののことだ。
そういう意味での、僕にとっての癒やしについても考えてみた。

行き詰まったとき、僕はサンテグジュペリの「夜間飛行」を思い出す。
彼は「星の王子さま」の人として有名だけれど、元飛行士でもあり、それを題材にした小説も書いていた。
夜間飛行の中に、次のような話が書かれていた。うろ覚えだけれど、記憶に残っている。

今よりももっと昔、橋を築くことが命懸けの仕事だったころ。
ある岸と、対岸を結ぶ橋を作る仕事の価値について。
すでに一つは橋がかかっていて、でももう一つ橋をかければ、人々は対岸に向かう際、数十分短い時間で行くことができるようになる。
それは果たして命を賭すだけの価値のある仕事かどうか、という話だったと思う。
それは、命の価値を問う話でもあった。人の命とは、それだけの価値しかないのではないか、無に等しい価値しかないのではないか、と。

僕は物事を覚えておくのが苦手で、心に残った言葉も文章も、すぐに忘れてしまう。
だから、この話がどのように結ばれていたのかは、忘れてしまった。確か、答えになるような言葉は書かれていなかった気がする。
でも、今はこの話に対して、こんな風に思う。

それは、価値のある仕事だった。

誰が何と言おうと、僕はそう思う。たとえ橋を架けるために命を落としたとしても。あるいは、橋を架けるために一生を捧げたとしても。
人によっては、たった数十分と思うかもしれない。橋がなければ迂回すればいいと思うかもしれない。
でも、その橋が架かることによって生まれる新しい出会いや、発展や、物語がきっとあるはずだ。

どんな些細な役割でも、きっとどこかに意味があるはずで。一見価値がないかのように見える仕事の積み重ねで、今の時代がある。
だから、これから先も、未来は今よりも良い場所になる。少しずつだから、気づかないかもしれないけれど。

こんな風に自分に言い聞かせることが、僕にとっての何よりの癒やしだ。
さあ、頑張ろう。

箸でパスタを食べるということ

今日、コンビニでパスタを買った。 レジにいた男性はおそらく日本人じゃなくて、彫りの深い顔立ちをしていた。彼は僕のパスタを丁寧に袋に詰めてくれて、パスタと一緒に、何も言うことなく、箸を袋に入れた。 その瞬間、そうか、と僕は悟った。僕はこれから、箸でパスタを食べるのだ。

僕は、箸でパスタを食べることを悪いとは思わない。レジの彼が間違っていたとも思わない。でも、きっと、パスタを箸で食べるのは正しくはない。と、箸とつまようじが入った袋を開けながら思った。

世の中ってこういうものなのかもしれない。 正しくはなくても、間違ってもいない。そういう物事はたくさんある。

時折僕らは、正しくないことをして後悔することもあるけれど、よくよく考えてみれば、それは決して間違いばかりでもない。

箸でパスタを食べるということは、たぶん、そういう世の中にある曖昧さを許すことなんだと思う。

そんなことを考えながら食べた今晩のミートソースは、懐かしく、少し新鮮な味がした気がした。

僕の世界が展開する/数学は世界を変える あなたにとっての現代数学

僕は微分がわからない。積分もわからない。
それが何に使われるのかということだけでなく、それが何を意味するのかさえ知らない。
世間の人たちは、おそらくこれらを知っているのだろう。

「数学は世界を変える」という本を半分読んだ。数学をわからない僕だけど、ちょっと感動した。

数学は世界を変える あなたにとっての現代数学

数学は世界を変える あなたにとっての現代数学

数学に興味を持つこと、そして数学に感動することに、数学の知識は必ずしも必要ではないようだ。
例えば、僕はフェルメールの絵が好きだ。でも、絵のことは詳しくないし、使われている技法がどのようなものかも、どのくらい凄い技術なのかもわからない。
あるいは、僕には大好きな友人がいる。素晴らしく、誇りに思える友人だが、僕は彼らの生い立ちも知らないし、内面のすべてを知っているわけでもない。
同じように、この本を読んで僕は、数学を知らないけれど、数学を好きになった。

この本の、「トーテムポール」の項が特に気に入った。
僕たちの身近な存在である電波放送の一つ、ラジオを例に挙げ、次のようなことが書かれている。

ラジオ放送が普及したのは、優れたアンテナを発明した人たちの功績といえよう。
そして、電波通信を可能にしたのは、イタリアのグリエルモ・マルコーニという発明家だ。
それは、ドイツの大学教授であるハインリヒ・ヘルツが電磁波の存在を明らかにし、無線通信が可能であることを証明したからこその発明だ。
さらに、ヘルツが電磁波を証明しようとしたのは、イギリスのクラーク・マクスウェルが「電磁場」の波という考えを思いつき、それに微積分を当てはめて微分方程式を導き、電磁波が存在するはずだと結論したからだった。
そして、微積分を考え出したのは、かのニュートンである。

連綿と続いてきた努力や実験の結果が、今の僕たちの社会を構築している。僕はこういう話に弱くて、少し、目が潤みかけた。
驚くことに、そこには国境もない。数学は共通の言語にもなるのか……。

数学を学び始めようと手に取った一冊めの本で、こんなにも壮大なスケールの話が展開するとは思わなかった。
まさに、数学は世界を変える、というタイトル通りだった。

この本は二章構成になっていて、僕はまだ前半しか読んでおらず、これから現代数学の章に入る。楽しみ! 数学を楽しみと思えるのは、中学生の頃以来だ。