読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

花びらを数える日々

チラシの裏、ときどき星の屑

名作に再び出会う/祝「サイボーグクロちゃん」電子書籍化

本のいいところは、読み返すたびに違う景色を見せてくれるところだ。
自分の心の有り様によって、同じ言葉でも別の意味に感じられる。

作品に描かれたものの真意はわからない

小学生の頃の国語のテストで、筆者の気持ちを考える、という問題があったように思う。あれは筆者に気持ちを聞いて問題を作ったのだろうか。
国語の問題を作るために夏目漱石にインタビューをした人物がいるのなら、それ自体が一つの物語として有名になっていることだろう。だから、本心なんて本人以外にはわからない。登場人物の気持ちにしても然りだ。外部から見てどうか、客観的に見てどうかなんて、実際には間違っていることも多い。自分自身ですら、自分の気持ちがわからないというのに、赤の他人である僕らに何がわかるというのか。

わからないということは、想像の余地があるということ

文章や芸術の面白さというのは、ここにあるような気がしている。わかる部分もあれば、わからない部分もある。わからないということは、想像する余地が残されているということだ。その文章が何を意味するのか、どのような意図で描かれているのか、何を伝えたかったのか。わからない部分を、僕らは想像で補わなくてはならない。そして、想像で補うという行為は、義務ではなく権利だ。

想像の余地があるから、人によって違う捉え方ができる

想像は人によって異なる。想像によって生み出されるもの、つまり補完される情報は、想像した人の背景に左右される。例えば、「トンネルを抜けるとそこは、」というフレーズの続きを自由に想像することができるとして、元になった一文を聞いたことがあるかないかという経験の差が、続く言葉を大きく左右するはずだ。
経験によって想像が広がることもあれば、無意識のうちに制限されてしまうこともある。人は皆違う経験を積み重ねてきているから、人は皆違う想像をする。言葉という道具を用いた場合、同じ想像になることもある。それでも、言葉一つ一つの意味は、人によって異なる。例えば、「りんご」といえば○○と言ったとき、「赤い」と思った人は複数いても、その赤みは人によって違う。違う捉え方ができるのは、言葉には曖昧さがあり、想像の余地があるからだ。

過去の自分と今の自分は別人である

背景が異なる人間は、別人である。少し強引にそう定義してみると、過去の自分と今の自分、そして未来の自分は別人だということになる。
実際に、先ほどまで僕は元気だったが、今の僕は腹痛を抱えている。これだけで物事への感じ方が変わる。

僕にとっての名作

僕は、何度も読み返したくなる本こそ名作だと感じている。サン=テグジュペリの書いた本は個人的に素晴らしいと思う。
音楽も、聞くときの心境によって様々な表情を感じられる。僕は教養がないので良し悪しはわからないけれど、何年たっても聞くような曲は、どれも好きな曲だ。

今、「サイボーグクロちゃん」という漫画が電子書籍化を記念して、Youtubeでアニメ版の無料配信をしている。 僕が小学生の頃好きだったヒーローだ。猫なのに(&サイボーグなのに)人間らしくて、かっこいい。 子供向けのアニメだけど、風刺的なギャグが取り入れられていたり、大人になって胸に刺さる台詞もある。

言いたいことを一言で言おう。
いいアニメなので、時間があればぜひ見ましょう。