花びらを数える日々

チラシの裏、ときどき星の屑

私と僕、さよならとまたね

昔、好きな作家や小説について人と話したことがある。
こういう文体が好き、とか、そういう話。
今では特にこだわりもなくなって、結局人間と同じで総合的に作品を評価するのだ、という結論を抱いている。

ふと、個人として書く文章において好き嫌いがはっきりしていることがあったので、なんとなく書いておこうと思う。

一人称、私と僕

一人称に何を使うか、という日本人共通の問題がある。
これについて、個人としてこの場でどちらを使うか考える。

私、僕、俺、自分、わたくし、我輩、某、拙者、などなど。個人的には我輩とかそれがしとか拙者とか使いたい気分のときはたまにあるけど、一般的な社会生活を送るにあたってなかなか難しいことのように思う。 普段使うのは、私、僕、俺、くらいだ。一般的な男性と同じく、相手によって使い分ける。 でも、対象が定まらないこういう文章の場合、私でも僕でもよく、少し困る。

私、という一人称は少しかしこまった感じがする。僕、という一人称には若干の甘えを感じる。
そういう面では私を使いたいのだけれど、やはり僕という音の響きも捨てがたい。

女性シンガーが魅力的に見える要因の一つは、歌詞に僕という一人称が入っていることだ、という持論がある。
私は僕が好きなのだ。口にしたときや耳にしたとき、あるいは脳内で再生したときに、ぼくという2音の響きが心地よく感じる。
私という音からは都会的なセクシーさを感じるが、僕からは純朴であまり擦れていない感じを受ける。
前者に憧れはするが、もう少し年を取ってからにしよう、と思う。よってこれからは僕を使おう。

さよならとまたね

私と僕問題に似たもので、さよならとまたね問題、がある。
さよならもまたねも別れの挨拶だが、この二つには明確な違いがある。

僕は、締めの言葉に「またね」を使う人がいたらそれだけで好意を抱く。
どんな出会いであっても、それは何かの意味があるもので、大切なものだ。僕は人と会うとき、会うという行為をそんな風に思っている。 ほとんどの人とは、一度会ったらそれっきりでもう二度と会わなかったりする。そうでなくても、人と会うときはそれが最後になるかもしれない、と思う。親しい間柄であっても、仕事上の付き合いでも。 一期一会、という言葉があるが、その考え方を僕は大事に思う。でも、だからこそまた会いたいと思うし、その一度を最後にしたくないと思う。 その思いが、またねという言葉に繋がる。それは約束ではないが、僕にとっての願いなのだ。

そんなわけで、さよならよりはまたねを使おう、と思っているし、できれば多くの人が僕にさよならではなくまたねと言ってくれたらいいな、なんてことを思う。