花びらを数える日々

チラシの裏、ときどき星の屑

確かなことと不確かなこと、若者の飲みニケーションについて

僕たちは、あるいは生物というものは皆、確からしいことを信じて行動することで生きている。例えば、何かを食べるにしても。これは食べても大丈夫、という確信は絶対のものじゃない。大丈夫だろう、という曖昧さを含む。

そんな大きな話をしたいわけじゃない。ただの飲み会の話だ。

誰かが飲みに行きたいと言い出した。 人にはそれぞれ自分の役割がある。企画する人間、調整する人間、場を盛り上げる人間、など。僕は飲み会の開催における自分の役割は人を調整することだ、と定義している。僕が思うに、人の意見というのは凸凹していて、ひと昔前に就活面接のテンプレとして流行った潤滑油のような人間ではそれらを均すことができない。多少の強引さがときには必要だ。と、僕は信じている。

さて。そんな中、一つの懸念点が生じた。この飲み会を望まない人間がいるかもしれない、という点だ。

僕は平気なふりをするのが得意だからしばしば忘れがちだが、元々人付き合いが苦手だ。だからわかる。飲み会をはじめとする人の集まりを嫌がる人間は一定数いるのだ。 葛藤が生まれる。話とまったく関係ないけど、葛藤というのはなんだか人が人らしくあるために必要な、とても貴重なもののように思えて、これが生まれたことを認識できて個人的に嬉しい。

ハムレット的心境だ。僕はこの飲み会の企画を潰すこともできる。為すべきか、為すべからざるか……それが問題だ。

そんなことを考えていて、一つの結論に至った。 僕たちは、確からしいことを信じて行動するしかない。今回のケースでは、少なくともこの話を持ちかけてきた企画者は、飲み会の開催を望んでいる。きっと楽しむこともできるのだろう。一方で、それを良しとしない人たちは、楽しめないかもしれないが、楽しめるかもしれない。乗り気じゃなかったイベントがやってみたらいい思い出になった、なんてことはよくある話だ。

だから、飲み会開くよ。それでもし嫌な思いをする人がいるとしても、あるいは僕自身が嫌な思いをする側の人間だとしても。不確かなネガティヴにとらわれていたら、いつまでも動けないから。

誘う方も勇気がいるんだ。なのに不満は好き勝手言ってくる。きっと部下や新入社員を飲み会に誘う上司はこんな気分なんだろう。 でも、一つ確かなことがある。覚えておいてほしい。 僕は自分が新入社員のころ、上司からの飲みの誘いが嬉しかった。緊張もするし食事もお酒も好みと合わなかったりしたけど、それでも楽しかった。きっと、そういう若者もいる。