花びらを数える日々

チラシの裏、ときどき星の屑

自己観察日記 #0

今日はブログの整理をしている。下書きに以下の文章が残っていて、せっかくだから削除せずにしておこうと思った。でも書き直したりする気も起きないから、そのまま公開してみる。へー、こんなこと考えてたんだ。結論は今でもわからないや。


今日は一日予定もなく、図書館や古本屋に行ったりした。 特に読みたい本もなく、読むべき本もわからず、今の僕に必要なのは自分自身と向き合う時間なのだろう、という結論に達した。

教養に関する本をパラパラとめくったりした。その本いわく、教養を学ぶことは、ジョブズがカリグラフィーを学んだことと近しいことだそうだ。いつ役に立つかはわからないが、それがあるから正しい判断をしたり、将来を見据えた行動をしたりできる。なんだか哲学の話みたいに聞こえる。

捉えどころのない物事については、僕は深く考えることができない。できないというのは正しくなく、実際にはできそうにない、というのが正しいのだろうけれど、挑戦しないということはできないことと同じだから、特に問題はない。我ながら面倒くさい、回りくどい書き方をする。ただ、頭の中が同じように回りくどい構造になっているのだ。ここでいう頭の中というのは思考のことだ。だから、仕方ないと思うことにする。

合理的な判断が常に正しいとは限らない。人の感情というのは非合理的なもので、僕たちは人だ。実に面倒だ。 クリスマスはもっと幸せな想像と妄想で飾られる日だと思っていた。僕はクリスチャンじゃないから、救われなくても仕方ないのだろうか。この辺りの解釈も、キリスト教についての知識があればまた変わるかもしれない。 学ぶことは知識を増やすことで、知識が増えれば多様な解釈やより理想的・平和的な解釈ができるようになる。教養を身につけるというのは、そういう意味に近いのかもしれない。僕には教養がないのでわからない。教養があれば、少なくともこのわからないことはなくすことができる。

明日から、今日から、どのように生きればいいのだろう。何が正しいかわからず、自分がどうするべきかもわからない。この状況は、砂漠にいるようなものだ。伊坂幸太郎の砂漠という小説を思い出す。社会は砂漠だ。

自己観察日記を始めようかと思う。自分を他者の視点で見ると、至らない点がたくさん見えるはずだ。それを直していけば、きっと立派な人間に近づける。それで僕はどうしたいんだろう。必死に生きて、その先にあるものは何だ?完璧な人間なんて誰が好きになるだろう?