花びらを数える日々

チラシの裏、ときどき星の屑

あまりにもたくさん読みすぎて感嘆する暇もなく、あまりにもたくさん書きすぎて考える暇もない現代

WordPressプラグインに関する情報を探していたらいつの間にかネットサーフィンに移行していた。今までにはあまりない経験で、自分の新しい一面を開けたようで嬉しい。喜ばしくはないことだが。
僕をネットの海に誘ったのはこんな一文だった。

あまりにもたくさん読みすぎて感嘆する暇もなく、あまりにもたくさん書きすぎて考える暇もない現代

ピエール・バイヤールという人の書いた、「読んでいない本について堂々と語る方法」に書かれたフレーズのようだった。
本の内容については一切知らないが、どうやらこの本は本を読むということを様々な角度で捉えたもののようで、そのうち読んでみたいと思う。楽しみが一つ増えた。

読むものがありすぎる。これは大きな問題だ。
仕事をするにも、日々の生活を営むにも、現代では情報を得なくては行動できない。いや、情報を得ないまま行動すると損をする、と言った方が正しいか。これは恐らく現代に限らず、どの時代でもそうだったのだろう。しかし現代は情報と人々との距離が非常に近く、誰もが情報を持つようになった。情報を得ずに行動することは武器を持たずに戦うのと同じことで、だから自分の身を守るためには自らもそれを手にする必要がある。

文章を読むという行為は、色々な味わい方があると思う。食事と同じだ。
ただそれを飲み込む作業として捉えることも出来れば、心を動かす娯楽にもなり得る。僕は、ゆっくりと本を読むのが好きだ。書かれた文章から情景を思い浮かべて、その世界に浸るのが好きだ。それはひどく人間的な行為で、人間的であることこそが豊かさなのだと思っている。でも最近は自分の時間も限られていて、そんな風に文章を味わうことは少ない。感嘆する暇がないのだ。

書くことがありすぎる。これも大きな問題だ。 仕事のメールもブログもLINEもある、現代に生きる僕らは昔よりもずっと何かを書く機会が増えたはず。自分の考えを文字にして表現することは人の暮らしを豊かにすることだと思っていたけれど、そこにあるのは洗練されていない言葉ばかりで、肝心な言葉は生まれることもないか、生まれるとともに埋もれてしまう。
時間がないのだ。ガラケーの頃は、一通のメールにも推敲の時間があった。読点の打ち方や顔文字の種類も、相手に合わせて考えていた。今はどうだろう?

考えていては、感じていては、置いていかれてしまう。そんな感覚が僕にはあって、追われるかのように読み、書く。
着地点が見つからないまま書いているこの文章も、まさにそれだ。