花びらを数える日々

チラシの裏、ときどき星の屑

「変わらないね」と「変わったね」

「昔から変わらないね」と言われるのと、「変わったね」と言われるのとでは、どちらが嬉しいだろう?

僕は今まで、変わらないね、と言われるのが嫌だった。それって成長していないということと同じじゃないか。変わらないところがあるのは認めるけれど、それ以外のところを、変わったところを見て欲しいと感じていた。

最近になって、変わらないものの価値に気づいた。

同窓会で昔からの友人に会った。友人たちは皆それぞれの生き方をしていて、それぞれに苦労も成長もして、ある意味では変わったところも沢山あった。でも、僕は彼らを「変わっていないなぁ」と感じて、そう感じた時の気持ちは、とても暖かく幸せなものだったのだ。

変わらないから、そこには自分の居場所があると、感じることができた。

変わらない部分というのは、つまりその人物や物事の根幹を成しているものだ。だから、変わらないと感じるということは、その対象の根幹となる部分を知っているということになる。僕の場合、変わらないと思ったのは、昔から変わらない彼らの本質を知っていたからだ。愚痴を言っていても頑張るところや、まっすぐで人に気を遣いすぎるところや、正直で自分を隠さないところ。他にも友人たちには言葉にできない素敵なところが本当に沢山あって、それを僕は知っている。そして、それらはこれから先も変わることはないのだと思う。

きっと、「変わらないね」と言ってくれる人は、自分の根っこの部分を理解してくれているのだろう。

そんなことを考えて、変わらないことも悪くないな、と思った。

 

世の中はどんどん変わっていく。より便利に、より効率的に。

僕は社会は良くなっていくと信じている。誰もが世の中を良くしたいと思って仕事をしているし、新しい技術は人と人との関係を今よりも良好なものにしてくれる。街も新しくなれば美しく変わっていく。

けれど、一方で、悪くなっていく部分や失われる美しいものもある。縁が途切れることも、懐かしい街並みがなくなることもある。

変わること、変わらないこと、きっとどちらも良いことなんだ。悪い部分は変わるべきだし、良い部分は変わらずにいてほしい。それは世の中にも人にも言えて、変えるべきところと、変わらずにいるべきところがあるのだ。

 

明日からの僕は、今までと変わらずに「変わりたい」と思っているはずだ。無力な自分も、不甲斐ない自分も嫌だから。

でも、「昔から変わらないね」と言われても「変わったね」と言われても、素直に喜ぶことができるだろう。