花びらを数える日々

チラシの裏、ときどき星の屑

隣の芝は青く見えるが、それは本当に青いのか。

隣人と常日頃から切磋琢磨している、という人はおそらく多くはない。
今日テレビ番組でやっていたが、ある調査によるとライバルと呼べる相手が身近にいる人の割合は十数パーセントにすぎないらしい。

日々生きていると、年を重ねるにつれ、周りの芝が青く見えることがある。
自分が立ち止まり、足踏みをし、三歩進んでは三歩下がるような暮らしをしている一方で、彼らはずっと先を駆けている。そんな風に感じてしまうことがある。
追いかけようというモチベーションに繋がるうちはまだいいが、その背中があまりにも遠くなれば、いつしか追う気力も無くなってしまう。それはまずい。

適度な距離を保つことが必要だ。
そのためには、たまには自尊心を育ててやらないといけない。
そこで、隣の芝は青く見える問題に対して、強硬な姿勢を取ることにした。つまりその青さを否定しようというのだ。いや、確かに青い芝の隣人はいる。しかしそれが全てではないはずだ。

見ているのは本当に芝か

私たちは隣人について多くを知らない。
友人も、家族も、あるいは自身のことでさえ、その全てが見えているわけではない。

もしかしたら、私が青いと思ったそれは、芝ではなく塀かもしれないし、屋根かもしれない。窓ガラスに映る空だった可能性もある。
つまり、それは私が欲しているものとはまるで違うものかもしれない、ということ。なお、青々しいことの比喩としての青と色彩としての青を同列に扱うが気にしないこととする。

青い窓は綺麗に見える。でも、空が映るかどうかはどちらから光が差しているかの問題であり、彼らだけのものじゃない。芝と違って、窓を磨けば私にだってすぐ得られるものだ。ならば比べる必要もない。何より窓に映る空が美しいと思うのなら、直接空を見ればいい。
翻って、簡単に手に入るものやより優れたものが他にある場合、それを羨む必要はない。また、羨むのは青い芝が本当に欲しいからこそであり、何が自分にとっての芝かを見極めるべきだ。

それは相対的な青さか、絶対的な青さか

目に映るのが本当に芝だったとする。自分の芝と比べて、隣人の芝は青い。とても青い。ではどうしよう?

そりゃあ羨む。妬んだり僻んだりすることもあるかもしれない。でもその前に少し冷静になろう。
彼らの芝は本当に青いのだろうか。もしそれが本当の青さでないのなら、その芝と比べるのはナンセンスだ。

数年前に、青にも黒にも見える服、みたいな画像が話題になったことがあった。うろ覚えだが。たしかモニターと周囲の色によって、どちらにも見えうる、といったものだった。うろ覚えだが。
周囲の色によって対象の色が異なって見える、という現象がある。自分の芝と相手の芝を見比べた結果相手の芝が青く見えたとしても、それは本当は青じゃなく黒かもしれない。あるいは、ひどくくすんだ青かもしれない。
例えば、自分が借金苦に悩んでいるときは、一文無しの相手も羨ましく思える可能性が高い。そこで羨んだり妬んだりしたところで、どちらも不幸になりそうではないか、という話だ。

妬み僻みはまぁ置いておくとして、少なくとも羨むという感情は悪い方向に作用するとは限らない。
それは前進するためのエネルギーになり得るし、悪いものじゃない。でも、何かを目指すのであれば、例えばそれが芝の青さならば、それは本当の青さであるべきと思う。目指した先が実は根腐れしていました、とかではあまりにも悲しい。

極論を言えば絶対的なものなどこの世にないのかもしれないが、絶対的な青さだと思えるようなもの、くらいのアバウトさであればきっと存在するはず。
そういうものをもし隣人が持っていたならば、その育て方を教えてもらおう。

そもそもの話

そもそも、という言葉はずるい。カードの大富豪や大貧民で言うところの「革命」のようなものだ。ルールを覆す。それでも便利だから使う。実に人間らしい。

そもそも、隣の芝が青かったとして、何が悪いのか。と、これを書いていて思った。本末転倒だ。
隣の芝が青くて、それがいいと思ったなら、自分の芝も青くしよう。頑張ろう。以上。