花びらを数える日々

チラシの裏、ときどき星の屑

友人の誕生日を祝うということ。

友人の誕生日を祝うこと、そして返事の来ないバースデーメッセージについて、意義を考えてみた。

僕は、友人の誕生日にはメッセージを送ることにしている。

昨日は友人の誕生日だった。
そして、メッセージに対する返事はまだない。

人とは

僕にとって友人とは、僕が勝手に好意を持っている相手のことだ。
それはひどく一方的なもので、でも、それでいいと思っている。
相手が自分をどう思っているかなど、突き詰めれば知ることはできないわけだし、少なくとも嫌われていたり避けられているような感覚がない以上、勝手に好意を持っていようと思う。

誕生日をなぜ祝うか

誕生日を祝う、という慣習がどのようにして生まれたかは知らない。 めでたい、というのはそういう価値観を持った人たちに囲まれて育ったからで、実際に何かがめでたいというわけではないかもしれない。
生まれてきたことがめでたいなら、誕生日に限らず毎日を祝福すればいい。 あるいは年を重ねることがめでたいなら、これも毎日めでたいわけだ。

結局のところ、何かしら区切りがいいから祝う、ということなのだろうけれど、それは何だか祝う口実を作っただけのようにも見える。
例えばだけど、こんな話があったのかもしれない。
昔、想い人にプレゼントを贈りたい男がいた。相手の喜ぶ顔が見たかったからだ。しかし、関係のない異性からのプレゼントは当時一般的ではなくて、上手い口実を必要としていた。そこで、男は相手の生まれた月の生まれた日に、その記念として贈り物をした。めでたしめでたし。

他にも、昔僕は親から「誕生日は周りの人に感謝する日だ」と教わった。そういう考えもあると思う。
でも、つまるところ「区切りがよくて、そこに伝えたい気持ちがある」から祝うのだ、と僕は思う。

誕生日に伝えたいこと

僕が友人の誕生日を祝うときに伝えたいと思っているのは、単純におめでとうという漠然とした想いと、気にかけていることと、ありがとうという感謝の気持ちだ。感謝については、大抵伝わらないと思うけれど、それでいい。 ただ、僕は君のことを大切に思っているし、気にかけているということを知ってもらいたいのだ。

もしも僕の誕生日が、人生で最低の日だったとして

人生で最低の日がいつ来るのかという問題は、最高の1日がいつ訪れるのか、という問題と同じくらい難しい。それがいつかはわからないし、どの程度のものなのかもわからない。
できることなら、そんな日のための衣装を用意しておきたいけれど、きっとそれは叶わないだろう。

人生のどん底にいるとき、きっと気分はひどく落ち込んでいるか、それを通り越しているにちがいない。
僕がそれを感じる日がもし来るならば、それは、あらゆる人間関係も失われたように感じていると思う。
自分の価値や生きる意味・意義も見失っている、そういう日だと思う。

そんな日に、もしも誰かが自分の誕生日を祝ってくれたなら、僕はきっと嬉しい。
だから、僕は友人の誕生日を祝う。

友人の誕生日を祝うということ

もしかしたら、迷惑なメッセージにしかならないかもしれない。
誰かと楽しく過ごしているところに水を差したり、あぁまた来たよと面倒に思われるかもしれない。

それでも、もしかしたら、相手にとって嬉しいと感じられるものになるかもしれない、だから僕は祝いたい。
それに、僕が友人と思う人たちは、他人の善意を迷惑に思う人ではないし、迷惑だったらそれをちゃんと伝えてくれる人だ。

そんなわけで、返事が来なくても気にしないさ!