花びらを数える日々

チラシの裏、ときどき星の屑

いい人でいること。どうでもよくないこと。

いい人でいるべきか否か、それが問題だ。

僕は意識的にも無意識的にも、いい人であろうとしてしまう人間だ。
きっと、同じような人はこの世界に沢山いる。

最近、仕事でもプライベートでも、顔も知らない人に対していい人であろうとしすぎる自分に気がついた。自分の時間がなくなったり、精神的に疲れたりしてきたので、いい人でいることについて考えてみる。

異性からいい人と言われる場合、どうでもいい人という意味だ、という話をよく聞く。
いい、という言葉は曖昧だ。でも僕にとって、いい人でいるかどうかは、どうでもいいことではない。

なぜいい人でいたいのか、いい人でいるべきなのか

少し前に、いい人でいることをやめよう的な本が流行ったりした覚えがある。
とてももっともな話だ、と感じる。多分、同意する人も多かったのだろう。
しかしそれは、いい人であるということが自己犠牲の上に成り立つものである、という前提に基づいた考え方のように思う。
いい人でいるためには、本当に多少の我慢や無理をしていなくてはならないのだろうか。

何かの是非を考えるとき、メリットとデメリットを列挙すると分かりやすい。
だから先に、メリットとデメリットを並べてみる。

いい人でいるメリットは、次のようなものがある。

  • 自分の気分がいい
  • 周囲の誰かの気分がいい
  • 円滑な人間関係を育むことができる
  • 自分の評価が上がる場合がある

次に、いい人でいるデメリットは、次のようなものがある。

  • 自分が金銭的・物質的な損害を被る
  • 自分の時間が奪われる
  • 自分の価値が下がる恐れがある

なるほど、だんだんわかってきた。
いい人でいることは素晴らしいことだ。なんたって気分がいい。僕たちは今を気分良く過ごすために生きていると言っても過言ではないのだから、挙げられたメリットは十分に魅力的だ。

しかし、支払う代償も非常に大きい。なんたって時間ほど大事なものはない。
確かに、例えばメールをじっくり考えて返してくれる人のことを、僕はいい人だと感じる。その内容がどうでもいいものだったとしても。
自分のために時間や労力を割いてくれる人を、僕たちはいい人と感じるのかもしれない。

得られるメリットのためにデメリットを許容できるのであれば、いい人でいるべきだ。
許容できるかどうかは、きっと状況次第なのだろう。

いい人であるべきか、いい人をやめるべきか

状況次第、というのは便利な言葉で、大抵のことに当てはめることができる。
いい人でいるべきかどうかをより具体的に決めるために、三つの軸を定めよう。
状況、対象、行為の三つだ。

状況について。状況は、自分に時間を始めとする余裕があるかどうか、というものだ。
余裕があればいい人であろう。余裕がなければいい人でいることは諦めよう。

対象について。対象が誰か・自分にとってどのような存在か。
これは判断に悩む。相手が自分にとって大切な人物なら、考えるまでもなく僕たちはいい人でいるはずだ。
でも、相手がただの知人や見ず知らずの人だったらどうだろう。いや、相手が誰であろうと、できることならいい人でありたい。

行為について。その行為が自己満足で終わらないかどうか、考えてみよう。
単なる自己満足に過ぎないのなら、やめよう。本当に相手のためになるなら、迷わずいい人になろう。

まとめる。
自分に余裕があって、かつ相手のためになるなら、僕はいい人でいよう。
余裕がなかったり、ただの自己満足なら、いい人でいるのはやめよう。

だけどいつかは、誰にでもやさしい人になりたい。


ブルーハーツ 人にやさしく