花びらを数える日々

チラシの裏、ときどき星の屑

食欲がないのは暑さのせいか、生きる必要性を感じていないからか

さて、今日でもう4日目か。嬉しいことに、また、悲しいことに、日々の流れる速さは思ったよりも速いみたいだ。

どんな物事にしても、それを始めた時の熱はすぐに冷めてしまうもので、今回の30日間チャレンジにしてもすでにやる気がなくなりかけている。 とりあえず、朝のランニングとブログだけは何としても続けようと思う。

最近は暑さのせいか食欲がなく、日に日に細く弱々しくなっていく自分を見るようで辛い。 もともと食への関心が薄かったのだろう。昔から食が細かったこともあって、学校の給食などは食べきれず、無理やりに食べさせられる時間が苦痛だった。今だって、健康を保てるなら食事をしたくないと思うこともよくある。飽食の時代だからか。客観的に見れば贅沢な悩みだ。
食べることが好き、という人が羨ましい。僕ももっと色々なものを食べれば、あるいは余裕のある心で食事をすれば、食べることを楽しめるのだろうか。

覚えていなければ、それは経験していないことと同じかもしれない。そんなことを考えるようになって、過去を思い返すことが大事なのではないか、と思うようになった。 昔のことはほとんど覚えていない。僕にとっての昔は多分、他の人の昔よりも時間的な距離が近い。僕にとって、3年前は昔だ。昔のことはほとんど覚えていない。漠然と、嫌なことや辛いことが多かったことは覚えている。反対に、輝くような日もいくつかはあった。人生なんてそんなものだろう。思い出す気もしないし、思い出せもしない。それでも、断片的な記憶をたどって過去の自分と対話することで、今の自分がよりよく把握できるような気がする。そして思い出した結果、楽しいことなんてほとんどなかった。

あるいは、世の中にはハッピーエンドなんてないのではないだろうか。僕は映画はハッピーエンドに限ると思っていて、救いのない終わり方をする映画はたいていあまり好きになれない。現実では、別れも死も必然で、最後は必ず悲しい終わり方が待っている。ヒーローを描き、多くの人の憧れだったであろうヘミングウェイも、最後は自ら命を絶ったのだ。現実にはハッピーエンドなんてありえないのかもしれない。ただ、そこに意味がないのかといえばそんなこともなく、何かしらの意味はあるはずだ。シェイクスピアの悲劇は、たとえ結ばれない恋人の物語であろうと、多くの人の心を動かし語り継がれている。その事実は、たとえこの人生が悲劇であろうとも、それが何かの意味を持つという証明だ。似たようなセリフが、何かの物語にもあったな。 もしかしたら。別れや死といった悲しい出来事を隠してしまうほどの、素敵な何かが人生にはあるのかもしれない。だとしたら、それを見てみたい。

と、ここまでを半分寝ながら書いていた。へぇ、こんなことを考えていたのかと、自分で別の自分を見ているようで、少し面白い。

残念ながら今日は特に書きたいこともなく、アウトプットを為すために必要なだけのインプットもないダメな1日を過ごしてしまった。そうだ、きっと今が充実していれば、過去の思い出に縋る必要もないんだ。明日はそんな1日になることを願う。自分でしなきゃいけないのだけどね。