花びらを数える日々

チラシの裏、ときどき星の屑

古き良き文化的な交流に憧れる

今日は仕事でサイトの表示速度の向上を行っていた。
半日かけて新しい技術を取り入れた。実際に向上した速度は一秒にも満たないけれど、ユーザーはそれを求めているらしい。Googleが言っていたのだから、多分そうなのだろう。

遅いことは不快だ。

人はいつからか、遅いことを不快に感じるようだ。
通販の配達や、電車の遅延や、ネットの表示速度。数分どころか数秒待たされるだけでも、僕たちは苛立ちを覚える。
だから、もっと速くするために技術を発展させる。

そうやって速さを求めることは、はたして正しいのだろうか。
速さも便利さも同じで、求めればキリがない。

でも、速くすることにそこまでの価値があるのだろうか?

僕はよく、サン=テグジュペリの「夜間飛行」の中で出てきた例え話を思い出す。
前にもブログで書いた気がするけれど、橋をかける仕事に人の命を賭すだけの価値はあるか、というものだ。
昔は橋をかける仕事は命がけだった。例えば、新しい橋があれば、対岸まで20分早く辿り着けるようになるとして、その20分は、人の命と天秤にかけられる仕事なのだろうか。
あの本の登場人物はたしか、人の命は計算できるものではないか、あるいは全体のためには無視されるほどの価値しかない、というようなニュアンスで語っていたが、僕には納得できる答えが見つからないままだ。

だって、待つことだって楽しい。

僕たちが目に見えない尊いものに気付けないのは、目に見えるものがあまりに美しいからだ。というような言葉が聖書にもあるらしい。 聖書で言うところの尊いものとは神様のことなのだろうけど、これは他のことにも当てはまるように思う。

今この文章を書いているパソコンも、手元にあるスマートフォンも、まるでSFの世界のもののようでワクワクさせてくれる。でも、少し前まではそんなものなくてもワクワクできていたんだ。

(待ちたいと思える相手がいさえすれば)

ガラケーだった高校時代は、メールが届くのを待つ楽しさが確かにそこにあった。中身を開けるまでわからないプレゼントのような嬉しさがあった。昔は文通というものもあったらしい。今はどれだけの人がやっているかもわからないけれど。

週末にデートの約束があれば、一週間を楽しく過ごせる。約束が来月なら、一ヶ月を楽しく過ごせる。
目に見えない待つことの楽しさが、きっとそこにはある。

結論

情報も感情も、消費するスピードがどんどん速くなって、同時に僕は飽きっぽくなる。
まだ足りない、もっと欲しい。それは社会や自身を成長させる糧なのだろうけど、待つことの楽しさはたぶん、そこにはない。

結論。僕は誰かと文通をしたい。