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花びらを数える日々

チラシの裏、ときどき星の屑

相対性と経験のレンズ

物事は相対的にしか存在し得ない、らしい。
そんな話を、最近何かの本で読んだ気がする。
帰宅時の駅前は平日と変わらない賑わいを見せていて、だから、今日が土曜日であることを、僕は携帯のカレンダーを見るまで確信できなかった。

自分や周囲の物事がどのような状態にあるかという事実も、人それぞれのフィルターを通して測られる。
人は皆、自分だけのものさしを持っている。それは、価値観とか趣味嗜好といった言葉で表されることが多い。
好き嫌いや善悪はもちろん、金持ちか貧乏か、痛みはあるか、何が美しくて、何が尊いか。そういったすべての評価は、僕らの持つものさしの目盛り次第で決まる。
誰にとっても絶対的な「何か」というものは存在しない。事実は一つでも、認識は人の数だけあるから。 事実は歪んで認識される。ものさしは人それぞれの形をしていて、目盛りの振り方もバラバラなのだから仕方ない。宗教だってそうだ。絶対の神や教えを説いていても、人によって解釈が異なる。だからきっと隣人を愛さない人も多い。
でも、だとしたら、僕らは真に共通の認識や、共通の正しさを持つことはできないのだろうか?
そう考えたら、少し悲しくなった。

ものさしは、言い換えれば世界を写すレンズだ。
僕たちは経験を通じてそれを作り、磨いていく。
歪んだレンズが写す景色も、それはそれで美しい。広角でも望遠でも、あるいはヴィンテージでも、そのレンズでしか撮れない写真がある。 つまり、僕らのものさしの違いは経験の違いから生まれ、それが僕らの価値でもある。

でも、できることなら、いつか歪みのない世界を見てみたい気もする。本当はそれらがどのような色や形をしているのか、誰もが共通して見ることのできる、その物事の本質は何なのか。

物事の本質を正しく捉える、ということから、「中庸」という言葉が思い浮かんだ。あらためて調べてみたら儒教の言葉らしいが、僕は無学なのでその辺りは正直よくわからない。
中庸とは、広い道の真ん中を歩くようなもので、とても難しく、尊い生き方らしい。右にも左にも偏ることなく真ん中を歩くには、その道の幅を正しく知らなくてはいけない。
そして幅を知るには、道の両端を知っている必要がある。
僕は、そんな生き方ができたら素敵だと思う。きっと、いろんな意見を受けてなお、自分なりの正しさを保つことができるだろうから。