花びらを数える日々

チラシの裏、ときどき星の屑

美しい想いは、美しいというだけで価値がある

いろいろなことを考えていると、どうしても気持ちが暗くなりがちだ。 それは、いろんな絵具を混ぜると濁ってしまうのに似ている。

ひとつひとつは綺麗なはずだ。根拠はないけれど、そう思う。 この世界には沢山の美しいものがあって、僕はそれを数えて生きていきたいのだ。

今日はたまらなく悲しくなって、だから美しいと思ったものに目を向け、文字にしておこうと思った。

少し前のこと。
もう七夕は過ぎてしまったけれど、一昨日まで街中のあちこちには短冊が掛けられていて、僕はそこに描かれている願いをふと盗み見てしまったりしていた。 内容は覚えていない。けれどそこにあった願いは、書いた本人以外のことを願ったものだった。一年に一度、願いが叶うとされる伝説の日に、自分の欲ではなく、誰かを幸せにすることを願う人がこの世界には沢山いるのだ。
そんなことを考えると、僕はとても嬉しくなってしまう。油断すると涙まで出そうになる。僕も願い事を書いた本人でさえも、願いが本当に叶うなんて信じてはいないだろうに。

実益の伴わない願いや想いなんて、意味がないと切り捨てられることもある。 でも、自分が空っぽに思えた夜なんかには、そういうものがたまらなく美しく見える。

明日からまた頑張ろう。

十年後の八月もまた新しい音楽を聴き続けたいと願う、夏の雨の夜

30代を過ぎると、人は新しい音楽を聴かなくなる。というネットニュースが数年前から流れている。 33歳だったり、30歳と半年だったり、それぞれ何かしらの調査による裏付けがあってのものなのだろうけれど、いずれにせよ僕らは歳を重ねると知らない音楽への興味を失ってしまう。かもしれない。

それは困る。非常に困る。僕にとって音楽は食料のようなもので、つまりはエネルギー源だ。幸せな時間を思い出したとき、その多くはお気に入りの音楽を聴いているときや、出会ったときや、それを生み出したアーティストへの思いを馳せているときなのだ。新しい音楽への興味が本当になくなってしまうとしたら、僕はきっと同時に生きる気力の一部も失ってしまう。

あるいは、それが歳を重ねるということなのかもしれない。歌が世界を救うこともある、なんていう幻想を幻想と認めてしまうことが大人になるということなのかもしれない。でも僕の中のロックな人格は、決してそれを許さないと言っている。身近な世界、世の中の見え方、音楽はそういうものを良い方向に変える力があると信じている。それは世界を救うことと言えるじゃないか、と。ならば抗おう。

世には大人になれない大人を指す、ピーターパン症候群というものがあるらしい。翻って、大人になることへの抵抗を示すと、ピーターパンだと揶揄されることもある。僕の中のピーターパン的人格は、ピーターパン上等!と啖呵を切る。もちろん大人になることは大事さ。ただ、それは相手を敬ったり、状況に応じた立ち振る舞いをしたり、責任とその果たし方を覚えることだと思う。もしも大人になることが大好きなことを忘れることだったり、綺麗事を笑いとばすようなことだというのなら、それは間違っている。音楽を楽しむことに年齢は関係ないし、世界は変えられるし、鮮やかな青を見る大人がいたっていい。そういう面では、僕らは子供らしい無邪気さを持ったままでいいのだ。大切なものを守ることができるのも、きっと大人の特権だ。

と、いうわけで今夜は今まで聞いたことのないアーティストのCDをTSUTAYAでたくさん借りてきた。 YouTubeiTunesがどれだけ普及しようと、CDと歌詞カードにはそれに勝る良さがあるよね。 たくさん音楽を聴いて、もっとずっと好きでいよう。

とりあえずこれを書きながら初めて聴いているフレデリックが素晴らしく良い。CD買おうかな…

雨の休日、束の間の春の再来、格好良すぎる音楽との衝撃的邂逅。

昨日から東京事変椎名林檎さんの曲を聴き始めた。 誰かに伝えたいとかより、このことを心に留めておくために書き残したい。

まず出会いについて書いておこう。 いつだったかのワールドカップのテーマ曲として使われたNIPPONという曲を、彼女が紅白で歌っていたのを見たのが最初だった。 それまでは椎名林檎というアーティストは僕にとって、年齢不詳のちょっと個性的な声を出す人、という今のなってはありえない認識しかなかった。 そのときテレビの向こう側の姿と、スピーカーを通して聞こえたその歌に、ひどく衝撃を受けたのを今でも覚えている。 なんて美しいのだろう、と。心が震えた。本当にそう感じたのだ。この人は命懸けで歌っている、という印象を受けた。あるいは一目惚れとは、ああいう瞬間のことを言うのかもしれない。

それから月日は流れ、僕のスマホにはiTunesで購入したNIPPONが入っていて、ランニング中に限界が見えたときに流すのが恒例になった。 あと一歩、もっともっと前へ、まるで心というものにジェットエンジンを無理やり括り付けられて加速するかのような感覚をあたえてくれるのだ。

さて、話は現在へ進む。僕はもともと、掠れた歌声やさらに言えば椎名林檎さんの声質そのものが好きではない。だから、他の彼女の歌を聴きたいと思うことはなかったし、一曲だけがイレギュラー的に素晴らしいのだと思い込んでいた。しかし、それは間違いだったと気づく。 それを気づかせてくれたのは、Youtube。現代の神器の一つだ。彼は、というより彼ら、と呼ぶべき企業のサービス群は、今や僕以上に僕のことをわかっているのかもしれない。高度に発達した科学技術は魔法と見分けがつかない、とは有名な言葉だが、まぁ魔法ならなんでもありだよね、と納得する。個人情報を対価に、僕たちは魔法を得る。

それから、彼女たちのMVを片っ端から再生した。それはこの上なく有意義な時間だった。 そこには忘れかけていた音楽の素晴らしさがあった。不完全で理不尽な世界と、人間の複雑さと美しさ。ああいう曲が書ける人たちは、また、あんな風に歌い、演奏することができる人たちは、きっとこの世界を本気で生きているのだろう、と感じた。実際は違うかもしれない。でも、その熱がこちらに伝染してくるように思うのだ。 趣味嗜好なんて、圧倒的な存在の前では無意味だ、と実感した。

こんな出会いがあるから、やっぱり生きるって素晴らしい。最大限の敬意と感謝を捧ぐ。

空が愛しき春の夕べ

f:id:sizohu:20180503183824j:plain 今日は綺麗な夕焼けを見た。空の美しさというのは写真では伝えることができなくて、その特別さがまた魅力でもある。
これは、僕が写真をうまく取れないことに対する言い訳ではない。
写真集で見たあの空もきっと、本当はさらに美しいのだ。そんな風に考えた方が、生きる楽しみになる。

夕日に照らされた空は、いくつものレイヤーが重なって複雑な光と色を見せる。雲は風に流れて、刻々と表情を変える。
僕は、綺麗な空を見ているときが、一番幸せかもしれない。

昔、ピンクとオレンジのパステルを混ぜて、色を塗るのが好きだった。なぜかはわからないし、何に使ったかもわからない。
けれど、その色は今日の夕焼けの色に似ていたような気がする。
僕は記憶力があまりなくて、幼い頃のことも数年前のこともほとんど思い出せない。嫌なことも忘れてしまっているから良い面もあるのだろうけれど、好きだったことを思い出そうとするとき、記憶が断片的すぎて少し悲しくなる。

難しいことが多すぎる世の中だけど、だから、たまには空を眺めてゆっくりするのもいいよね。

新入社員、あるいは初心を思い出した自分へ

新年度が始まり、新社会人をはじめとする新しい環境に身を移す人へ向けたメッセージを多くの人が発信している。
最近になってようやく始めたツイッターのタイムラインや、たまたま見つけたブログのエントリーにもそれはあって、なんだか自分まで勇気付けられるような感覚がある。
僕も触発されて、そういう人たちに対する考えを述べつつ、自分の人生について考えたいと思う。
誰も読まなかったとしても、いつか自分を励ますことになるかもしれないから。

社会に出て思うこと

よく、新入社員は3年はやめるな、などと言われるらしい。僕もどこかで実際に耳にしたことがある。でも、最近では、経歴や成長よりも自分自身を大事にするべきだ、という声も大きいように思う。
僕は、どちらかというと後者の意見に賛同する。自分はもっぱら前者を実践し、我慢や苦労を重ねているのだけれど。
人はみんな違っていて、それぞれの感性がある。僕にとって正しいことや、世の中の多くの人にとって正しいことが、誰かにとっては正しくないこともある。

大切なのは、自分がどうしたいかを決めることだ。

誰が何を言うから、などという理由は関係ない。もちろん人の意見を参考にするのは正しい。でも、最終的な決断を下すのは自分であって、他の誰でもない。

僕は、進学の際には教師に志望校を反対され、進路を悩んでは恋人に反対され、学校を卒業してからはベンチャーに入り、それから起業もした。人生における節目には、周りの人たちの反応はほとんど3種類だった。反対か、心配か、無関心かだ。だから、次第に誰かに相談することもなくなった。

今の生活は豊かではない。大変なことも多いし、失ったものも多いし、手にしたものは思ったより少ない。隣の道を選んでいれば、きっと別の人生があっただろうと思う。
それでも、後悔はしていない。これはきっと自分の心に従ってきたからだ、と今になってみれば思える。

責任を負うこと

自分の意見を通すのは、考えなくてはいけないし、責任を負わなくてはいけないし、疲れるし、孤独だ。できることならしたくない。誰かの意見に従っていれば、少なくともすべての責任を自分一人で背負う必要はなくなる。
嫌なことからは逃げたくなるのが人間だ。僕は責任を負うのが嫌いだから、すぐに逃げたくなってしまう。

でも、責任を負うという行為は、一方で大人の特権だとも思うのだ。
それこそが社会人に許された楽しみではないか、と。
だから、嫌々ながらも責任を負う道を選んだ。しんどいことが多い人生よりも、楽しいことがない人生の方が嫌だったから。

自分らしく生きようなどと最近世間は言うけれど、その自分らしさには責任が伴うことを覚えておかなくてはならない。 だけど、責任を負うのは決して悪いことじゃない。少しの覚悟が必要なだけだ。

人生に点数をつけるなら

もし人生がテストのようなもので、それに点数をつけるとしたら、今の自分がどうあるかが採点基準になるのだろうと思う。 今、自分や周囲の人が最高に幸せなら、それはきっと満点の人生だ。途中の選択がどうであれ、その場所にたどり着ければいい。 だから、いろいろ悩んだり間違ったりしても、その先に正しいと思える何かが見つけられたのなら、それでいいと思う。

あとは、生きてさえいればそれだけで点がもらえる。気がする。どうだろう? もしも誰にも認めてもらえない人がいたとしても、僕はその人が生きてさえいれば褒めてあげたい。きっと同じように思う人が、世の中にはたくさんいるはず。

とりあえず戦ってみる

最後に。知り合いの映画通に勧められて観た邦画『桐島、部活やめるってよ』より、とっておきのセリフを。

「戦おう、ここが俺たちの世界だ。俺たちはこの世界で生きていかなければならないのだから。」

壮大な何かを成したりするわけでもなく、時に自分の無力さを感じたりもしながら、僕らは生きている。
それでも、目の前のことに真剣に立ち向かうことって大事だし、すごく素敵なことだと僕は思う。
戦ってもまるでかなわなくて、結局逃げるしかないこともあったりする。でも、それはそれで悪くないと思う。

だから、明日からもまた戦ってみよう。

友人の誕生日を祝うということ。

友人の誕生日を祝うこと、そして返事の来ないバースデーメッセージについて、意義を考えてみた。

僕は、友人の誕生日にはメッセージを送ることにしている。

昨日は友人の誕生日だった。
そして、メッセージに対する返事はまだない。

人とは

僕にとって友人とは、僕が勝手に好意を持っている相手のことだ。
それはひどく一方的なもので、でも、それでいいと思っている。
相手が自分をどう思っているかなど、突き詰めれば知ることはできないわけだし、少なくとも嫌われていたり避けられているような感覚がない以上、勝手に好意を持っていようと思う。

誕生日をなぜ祝うか

誕生日を祝う、という慣習がどのようにして生まれたかは知らない。 めでたい、というのはそういう価値観を持った人たちに囲まれて育ったからで、実際に何かがめでたいというわけではないかもしれない。
生まれてきたことがめでたいなら、誕生日に限らず毎日を祝福すればいい。 あるいは年を重ねることがめでたいなら、これも毎日めでたいわけだ。

結局のところ、何かしら区切りがいいから祝う、ということなのだろうけれど、それは何だか祝う口実を作っただけのようにも見える。
例えばだけど、こんな話があったのかもしれない。
昔、想い人にプレゼントを贈りたい男がいた。相手の喜ぶ顔が見たかったからだ。しかし、関係のない異性からのプレゼントは当時一般的ではなくて、上手い口実を必要としていた。そこで、男は相手の生まれた月の生まれた日に、その記念として贈り物をした。めでたしめでたし。

他にも、昔僕は親から「誕生日は周りの人に感謝する日だ」と教わった。そういう考えもあると思う。
でも、つまるところ「区切りがよくて、そこに伝えたい気持ちがある」から祝うのだ、と僕は思う。

誕生日に伝えたいこと

僕が友人の誕生日を祝うときに伝えたいと思っているのは、単純におめでとうという漠然とした想いと、気にかけていることと、ありがとうという感謝の気持ちだ。感謝については、大抵伝わらないと思うけれど、それでいい。 ただ、僕は君のことを大切に思っているし、気にかけているということを知ってもらいたいのだ。

もしも僕の誕生日が、人生で最低の日だったとして

人生で最低の日がいつ来るのかという問題は、最高の1日がいつ訪れるのか、という問題と同じくらい難しい。それがいつかはわからないし、どの程度のものなのかもわからない。
できることなら、そんな日のための衣装を用意しておきたいけれど、きっとそれは叶わないだろう。

人生のどん底にいるとき、きっと気分はひどく落ち込んでいるか、それを通り越しているにちがいない。
僕がそれを感じる日がもし来るならば、それは、あらゆる人間関係も失われたように感じていると思う。
自分の価値や生きる意味・意義も見失っている、そういう日だと思う。

そんな日に、もしも誰かが自分の誕生日を祝ってくれたなら、僕はきっと嬉しい。
だから、僕は友人の誕生日を祝う。

友人の誕生日を祝うということ

もしかしたら、迷惑なメッセージにしかならないかもしれない。
誰かと楽しく過ごしているところに水を差したり、あぁまた来たよと面倒に思われるかもしれない。

それでも、もしかしたら、相手にとって嬉しいと感じられるものになるかもしれない、だから僕は祝いたい。
それに、僕が友人と思う人たちは、他人の善意を迷惑に思う人ではないし、迷惑だったらそれをちゃんと伝えてくれる人だ。

そんなわけで、返事が来なくても気にしないさ!

空に夢見る月食前夜

どこか遠く、今よりもずっと高いところへ行きたいと思うとき、僕はよくイカロスの神話を思い出す。 蝋で固めた作り物の翼で飛び、太陽に近づいて墜落した話。作り物の翼でもいいし、太陽まで行く気もないから、空を自由に飛べたらいいなって。

一方で、本物の翼を羨んだりもする。
世の中には、敵わない相手がいる。綺麗事じゃ超えられない壁がある。誰だってそれを知っていて、だから夢を忘れたりする。
人にはそれぞれ背負ってきた過去があって、遺伝子の差もあって、だから、信念や才能の差を感じずにはいられない相手がいる。
その人だけの苦労をすれば、それが他者に負けない強い背景になる。苦労じゃなくても、憧れとか、夢とか、そういった類のものがあれば努力する動機になる。それらはきっと、信念を育む糧になる。 優れた事業やサービスには、そういう信念を持った人が携わっていることが多いように思える。僕はそういうものを見かけるたびに、ああ敵わないな、と感心し落胆する。

彼らにあるのは、きっと本物の翼だ。いくら追いかけたところで、まがいものの翼で追いつけるはずがない。 と、いつもそう思ってしまう。

しかし、人類は作り物の翼で空を飛んだ。ライト兄弟は本当に素晴らしい。彼らが成したのは人類初の有人飛行という夢だけではない。きっと、未来に生きる多くの人々が、彼らの功績に勇気をあたえられたにちがいない。
今では、人は鳥よりもずっと速く空を飛ぶ。作り物の翼が、本物の翼よりも速く飛ぶ。現代を生きていると当然のことのように思えるけれど、これってすごいことだ。
僕らには技術がある。そして技術は生み出す苦労に対して非常に低いコストで、学び活用することができる。 もしかしたら、信念や才能という圧倒的な差でさえも、技術の活用によっては覆すことができるのではないか。

イカロスの神話が説くのは傲慢さや慢心、技術への過信が身を滅ぼす、というものだろう。それなら、正しい心を持って技術を用いれば、きっと自由に空も飛べるはず

そういえば、明日は皆既月食ブルームーンというちょっとした奇跡が起きるのだけれど、あいにくの天気らしい。 もしも空を飛べたなら、雲のうえから美しい星空が見たいものだなぁ。