花びらを数える日々

チラシの裏、ときどき星の屑

行き止まりでも交差点でもなくても、地図を見たいときは立ち止まろう。

釣れないときは、魚が考える時間を与えてくれたと思えばいい。

ヘミングウェイの言葉、らしい。老人と海は何度も読み返しているが、どこにこの言葉が出てきているかは知らない。忘れてしまったか、あるいは元からないのか。でも、良い言葉だと思う。だから、誰が言ったかは大した問題じゃない。

僕は、立ち止まって停滞することを恐れるあまり、考える時間を失くしてしまいがちだ。 でも多分、考えたり自分を見つめ直したりすることと、ただそこに立ち尽くすことは違う。

思う通りに動けないのは、計画が未熟だからなのではないか、と思うのだ。 何をすべきか、いつすべきか、どのようにすべきか、そのためには何が必要か、行動に必要な材料のようなそれらの思考がまとまっていないとき、僕は動けなくなる。動いていても、どこか空回りしているような感覚がつきまとう。

確かヘミングウェイは、動きと行動を混同するな、とも言っていた。行動を起こせない人は、多いと思う。 思いばかりが先を走り、思考がついていかない。本来は計画が大事だと気づいていながら、日々に追われてそれをないがしろにしてしまう。そしてまた、ただ動くだけの時間が始まる。負のスパイラルだ。

勇気を持とう。止まる勇気を持とう。
立ち止まるのは怖い。一度止まってしまったら、二度と走れないかもしれない。走り始めるときが一番大変だと、僕たちは知っているから。
考えるのは苦しい。嫌なことや色々な現実と、正面から向き合わなくてはならないから。

それでも、立ち止まろう。ちゃんと自分の位置を確認して、進むべき道を見定めて、計画を立てよう。頭がすり減るくらいに考えよう。きっとその時間は無駄じゃない。

わかってることだ。あらためて自分に言い聞かせるまでもなく、こんなことわかっている。でも、わかっていると思っていることが、できているとは限らない。

大丈夫、きっと今日は明日の糧になる。明日は未来の糧になる。怖くても立ち向かって、ときに立ち止まって、そんな風に日々を送ろう。

昨日より今日は、一歩でも遠くへ。

今日で5日目。いい感じだ。
30日間チャレンジとして、ブログを書くまで寝ないことにしている。同時にランニングを日課として取り入れた。いくつか他にも始めた習慣があったが、それらはもう続かなかった。

朝起きてからランニングをするようになって、実感するメリットが二つある。

一つ目は、気温の変化を感じることで、生きていることを再確認できること。なにそれ、と思われるかもしれないけれど、これが結構大事なことだと僕は思っている。仕事をしているにしても、休みの日にゴロゴロしたり買い物に行ったりするにしても、夏場は日光を避けて生活している。屋内では冷房を使うし、屋外でも日陰を探して歩くことが多いのではないだろうか。しかし、じりじりと照りつける夏の日差しや、アスファルトから伝わる熱気、それらは夏らしさを感じさせてくれる。四季を感じること、季節の移ろいやそれぞれの良さ・厳しさを感じることは、僕にとってはとても幸せなことで、それこそが生きている実感をあたえてくれるものでもある。夏の暑さも冬の寒さも嫌いと言えば嫌いだけど、自分自身とそれ以外の境界がはっきりと感じられて、その点は大好きなんだ。

二つ目は、メンタルのトレーニングとしての側面。 辛いことや苦しいことに立ち向かうという、生きていく上で当たり前に必要なことを、僕はいつも避けがちだ。やっぱり人は楽な方へ行きたいし、気づかないうちに流れてしまうものだと思う。誰もが立派な精神の持ち主じゃないし、自分に厳しくできるわけでもない。
日が昇り次第に暑くなる河川敷を走っていると、だんだんと息も上がって苦しくなってくる。すると、いろんな弱音が浮かんでくる。どうして頑張らなきゃいけないのだろうとか、もうダメだ歩いてしまおう、とか。でも同時に、負ける悔しさも思い出す。昨日の自分に負けたくない。前を走るあの人に負けたくない。ここで終わってたまるか、負けてたまるか、という思いがふつふつと湧いてくる。単調な毎日に甘やかされた自分と負けず嫌いな自分が競い合って、今の僕は、いや、いつでも僕たちは、後者を応援したいのだ、と気づくことができる。

どうせ誰にも見られることのないブログだ。どうせ使い道のない体力だ。どれだけ続けようと、どれだけ鍛えようと、誰が認めてくれるわけでも、褒めてくれるわけでもない。
それでも、今は続けてみたいと思っている。それはきっと、自分自身の期待に応えるためだ。こういうのも、悪くない。

食欲がないのは暑さのせいか、生きる必要性を感じていないからか

さて、今日でもう4日目か。嬉しいことに、また、悲しいことに、日々の流れる速さは思ったよりも速いみたいだ。

どんな物事にしても、それを始めた時の熱はすぐに冷めてしまうもので、今回の30日間チャレンジにしてもすでにやる気がなくなりかけている。 とりあえず、朝のランニングとブログだけは何としても続けようと思う。

最近は暑さのせいか食欲がなく、日に日に細く弱々しくなっていく自分を見るようで辛い。 もともと食への関心が薄かったのだろう。昔から食が細かったこともあって、学校の給食などは食べきれず、無理やりに食べさせられる時間が苦痛だった。今だって、健康を保てるなら食事をしたくないと思うこともよくある。飽食の時代だからか。客観的に見れば贅沢な悩みだ。
食べることが好き、という人が羨ましい。僕ももっと色々なものを食べれば、あるいは余裕のある心で食事をすれば、食べることを楽しめるのだろうか。

覚えていなければ、それは経験していないことと同じかもしれない。そんなことを考えるようになって、過去を思い返すことが大事なのではないか、と思うようになった。 昔のことはほとんど覚えていない。僕にとっての昔は多分、他の人の昔よりも時間的な距離が近い。僕にとって、3年前は昔だ。昔のことはほとんど覚えていない。漠然と、嫌なことや辛いことが多かったことは覚えている。反対に、輝くような日もいくつかはあった。人生なんてそんなものだろう。思い出す気もしないし、思い出せもしない。それでも、断片的な記憶をたどって過去の自分と対話することで、今の自分がよりよく把握できるような気がする。そして思い出した結果、楽しいことなんてほとんどなかった。

あるいは、世の中にはハッピーエンドなんてないのではないだろうか。僕は映画はハッピーエンドに限ると思っていて、救いのない終わり方をする映画はたいていあまり好きになれない。現実では、別れも死も必然で、最後は必ず悲しい終わり方が待っている。ヒーローを描き、多くの人の憧れだったであろうヘミングウェイも、最後は自ら命を絶ったのだ。現実にはハッピーエンドなんてありえないのかもしれない。ただ、そこに意味がないのかといえばそんなこともなく、何かしらの意味はあるはずだ。シェイクスピアの悲劇は、たとえ結ばれない恋人の物語であろうと、多くの人の心を動かし語り継がれている。その事実は、たとえこの人生が悲劇であろうとも、それが何かの意味を持つという証明だ。似たようなセリフが、何かの物語にもあったな。 もしかしたら。別れや死といった悲しい出来事を隠してしまうほどの、素敵な何かが人生にはあるのかもしれない。だとしたら、それを見てみたい。

と、ここまでを半分寝ながら書いていた。へぇ、こんなことを考えていたのかと、自分で別の自分を見ているようで、少し面白い。

残念ながら今日は特に書きたいこともなく、アウトプットを為すために必要なだけのインプットもないダメな1日を過ごしてしまった。そうだ、きっと今が充実していれば、過去の思い出に縋る必要もないんだ。明日はそんな1日になることを願う。自分でしなきゃいけないのだけどね。

日曜と月曜の間、理想と現実の間

思考の整理に、ダラダラと言葉を綴ろう。これらは僕の反省文だ。

今、ユーザーインターフェースに興味がある。

自分の普段利用するサイトやアプリ、サービスを見直してみると、それを選択した理由はデザインや触り心地による「体験」の違いによる部分が大きい、ということに気がついた。 それは、多くのサービスでコンテンツの充実というニーズが満たされているからかもしれない。きっと最初は、サービスの選択基準はコンテンツがどれだけ充実しているか、またその品質が高いか、価格が安いか、などであろう。しかし、優れたサービスには必ずと言っていいほどフォロワーが現れる。通常は、先駆者は蓄積した顧客やノウハウを抱えており、追随する他のサービスは二番手以降になるように思う。本当はそうなのかわからないが、僕はなんとなくそんな気がする。

デザインの力は偉大だ。僕はデザインができないから、余計にそう感じるのかもしれない。優れたデザインはまるで魔法のように、見る人の心を惹きつける。そして、対峙するものに畏怖の念を与える。 スマホをいじっていると、あるいはウェブサーフィンをしていると、とても真似できない、と感じさせる優れたデザインやインターフェースに出会うことがある。僕の中では、すごいけど真似できそうなものと、すごくて真似もできなさそうなものとが明確に分かれていて、後者に度々凹まされる。自分の知らない技術が使われていたり、到底及ばないセンスの良さがそこにはあって、自分がどれほど無力で価値を生み出せていない人間かを思い知ってしまう。

日曜日はこんな風に、劣等感や雑多な思考が散乱することが多い。きっと、目的なく時間を過ごしているからだろう。 やるべきことを明確にして、そのためにはあるべき自分を明確にして、明日を過ごそう。反省おわり。

すでに始まっている、というモチベーション

30日間チャレンジ2日目。
早くも挫けそうだ。しかし、すでに習慣は始まっている。

つい先日、モチベーションに関するこんなことを学んだ。

「やらなきゃ」ではなく「すでに始まっている」と捉えること

人は走り始めが一番辛い。もちろん走り続けることは大変だけど、一度走り始めてしまえば、思ったよりなんとかなることも多い。だから、物事を始めるときも、すでに始まっていると思えば気持ちが楽になる。モチベーションも高まる。らしい。

今日は、朝のランニングから1日がスタートした。
なまった体は心なしか悲鳴をあげているような気もした。まだ寝ていたい全身の細胞が、無理やり起こされるような感覚があった。土曜日だからか、あるいは暑さのせいか、川沿いのコースを走る人はほとんどいなくて、散歩する人と合わせても両手に数えられるほどの人数としかすれ違わなかった。

昨日決意した習慣については、早速達成できない項目が出てきた。英語の学習だ。もともと動機があまり強くないこともあって、そして何よりも眠くて、僕は諦めることにした。我ながらもう少し、せめて1日くらい頑張れよと思う。英語は一旦やめようかな……。

1日の時間配分を考えていると、どうしても時間が足りなくて、睡眠時間を削るか仕事の時間を減らすか、あるいは習慣に費やす時間を減らすか、という選択をせまられることになった。 睡眠時間を減らすのは一番簡単だけど、きっと一番良くないであろうことが想像できる。僕は睡眠不足だと日中のパフォーマンスがひどく落ちるから。残りの二択で、どちらが重要かを判断して、とりあえずの結論を出す。仕事の時間を減らし、その代わりに習慣の中での業務に関する学習の時間を増やす。知識や技能の習得を早めることで業務効率を上げ、良い習慣、つまり学習に費やす時間を減らすことなく1日を回そうという狙いだ。

僕は自分に過度な期待をしていない。何でもできるスーパーマンになれるわけでも、かっこいいヒーローになれるわけでもない。自分に甘くて、未熟な人間だということを自分が一番良くわかっている。それでも、理想というものは捨てきれなくて、いつか今の自分と違う、今よりもかっこいい人になりたいと思う。大人になった今だって、ヒーローに憧れるんだ。年を取ったら、ヘミングウェイの「老人と海」のサンチャゴや、イーストウッドの「グラン・トリノ」のウォルトみたいになりたい。もう少し柔和な性格で、穏やかに暮らしたいとは思うけど。

そのために、今を積み重ねていかないとね。
よし、今日もブログを書いた。明日も頑張ろう!

毎日ブログを書くまで寝ないことにする/30日間チャレンジ(1日目)

ウェブに関する仕事をしている人なら誰もが知っているであろう、マット・カッツ氏。そのTED「30日間チャレンジ」も、様々な媒体で紹介されていたことから、有名なものだと思う。

それは簡単にまとめると、「30日間何かを続けるという行為は新しい習慣を作るのに適しており、もしあなたが人生に取り入れたいと思っていたことがあるのなら、今すぐに始めてみるといい」という内容だ。
今回はその30日間チャレンジを実践しようと思う。

以前、ブログを始めた頃はそのくらい続いていた気がするけれど、いつの間にかやめてしまった。しかし、現在の自分の生活を振り返ってみると、明らかにアウトプットの機会が少なく、言葉をまとめたりすることが苦手になりつつある。
どんなつまらない内容であっても、継続は力なりだ。まずは再開することから始めてみようと思った。

毎日ブログを書くまで寝ない。少なくとも今日からの30日は、この決まりを守る。
睡眠時間が削られたとしても、内容の無い記事が量産されたとしても、きっと、一つの成果と何かしらの変化が生まれるはずだ。

合わせて、明日からは自分自身の生活習慣を大きく見直そうと思う。
今の自分は、理想とはほど遠い。毎日をダラダラと過ごし、体力も思考力も落ちている。5年前の僕が今の僕を見たら失望するだろうし、5年後の僕が見たら怒るだろう。 なぜこうなったのか考えてみたら、いろいろと思い当たる節はあった。抱えているものや背負っているもの、大切な何かとかあるいは信念のようなものを、失くしてしまったせいだ。頑張ったところで何も得られないし、得る必要もない。失うものもない。そんな風に感じていることに気づいた。我ながらひどい。最近は恋をしてないからだと思う。いつも誰かのためにと動いてきたからか、自分のために何かをする、というのがどうもモチベーションに繋がらないのだ。

さて、では具体的に何をするかを記そう。

  • 体力づくり(早朝ランニングと筋トレ):朝1時間
  • 英語の学習(文法・単語):朝晩1時間ずつ
  • 時事とビジネス情報の取得:朝1時間
  • 業務に関する知識、技術の習得:夜2時間

全てが計画通りに行くわけじゃない。三日坊主はよくあることだ。それでも、複数のことを続けていればそのどれか一つは身につくのではないか、と期待している。

英語は話せるようになる必要はない。読めるようになれば、より多くの知識の習得に役立つ。特に、ウェブやプログラミングに関する情報は英語のものが多いから、それらに対して抵抗感をなくすためにもあらためて学びたいと思っている。
体力は思考体力にも影響する、と思う。それに、色白でガリガリで虚弱そうな今の自分はかっこ悪い。夏だし体を動かそう。
時事的な情報も、あまり進んで得ることがなくなってきていた。どうしても興味のある情報の方向にばかりアンテナが傾く。幅広い知識は、思考の広がりや深さにつながるはず。線を描くためには、まず自分の内や外に点を見つけなくてはならない。
人としての成長は、ビジネスマンとしての成長とイコールではない。長期的に人生を形作る習慣は非常に大事だけれど、それと同じくらい、今現在の仕事に役立つ習慣を身につけることも大事だ。未来はおそらく、現在と地続きの場所なのだから。

上記合計6時間程度を業務用に作成している15分間隔のスケジュール表に取り入れ、明日から実行するつもり。あとこのブログもね。ブログの内容はなんでもいいことにした。
たぶん大変だけど、嫌な自分から逃げているよりも楽だと思うから。頑張ってみる。

確かなことと不確かなこと、若者の飲みニケーションについて

僕たちは、あるいは生物というものは皆、確からしいことを信じて行動することで生きている。例えば、何かを食べるにしても。これは食べても大丈夫、という確信は絶対のものじゃない。大丈夫だろう、という曖昧さを含む。

そんな大きな話をしたいわけじゃない。ただの飲み会の話だ。

誰かが飲みに行きたいと言い出した。 人にはそれぞれ自分の役割がある。企画する人間、調整する人間、場を盛り上げる人間、など。僕は飲み会の開催における自分の役割は人を調整することだ、と定義している。僕が思うに、人の意見というのは凸凹していて、ひと昔前に就活面接のテンプレとして流行った潤滑油のような人間ではそれらを均すことができない。多少の強引さがときには必要だ。と、僕は信じている。

さて。そんな中、一つの懸念点が生じた。この飲み会を望まない人間がいるかもしれない、という点だ。

僕は平気なふりをするのが得意だからしばしば忘れがちだが、元々人付き合いが苦手だ。だからわかる。飲み会をはじめとする人の集まりを嫌がる人間は一定数いるのだ。 葛藤が生まれる。話とまったく関係ないけど、葛藤というのはなんだか人が人らしくあるために必要な、とても貴重なもののように思えて、これが生まれたことを認識できて個人的に嬉しい。

ハムレット的心境だ。僕はこの飲み会の企画を潰すこともできる。為すべきか、為すべからざるか……それが問題だ。

そんなことを考えていて、一つの結論に至った。 僕たちは、確からしいことを信じて行動するしかない。今回のケースでは、少なくともこの話を持ちかけてきた企画者は、飲み会の開催を望んでいる。きっと楽しむこともできるのだろう。一方で、それを良しとしない人たちは、楽しめないかもしれないが、楽しめるかもしれない。乗り気じゃなかったイベントがやってみたらいい思い出になった、なんてことはよくある話だ。

だから、飲み会開くよ。それでもし嫌な思いをする人がいるとしても、あるいは僕自身が嫌な思いをする側の人間だとしても。不確かなネガティヴにとらわれていたら、いつまでも動けないから。

誘う方も勇気がいるんだ。なのに不満は好き勝手言ってくる。きっと部下や新入社員を飲み会に誘う上司はこんな気分なんだろう。 でも、一つ確かなことがある。覚えておいてほしい。 僕は自分が新入社員のころ、上司からの飲みの誘いが嬉しかった。緊張もするし食事もお酒も好みと合わなかったりしたけど、それでも楽しかった。きっと、そういう若者もいる。