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花びらを数える日々

チラシの裏、ときどき星の屑

土日休みに憧れるのは、休みたいからじゃない。

SHISHAMOの「明日も」が素敵。柔らかい声と明るいテンポと、前向きな歌詞が気持ちいい。

平日の仕事や学校、週末の安らぎや楽しみなんていうのは、きっとありふれたテーマで、いろんなアーティストが歌っている。
生活って結局はルーチンで、だけどその中にある、普通の生活における苦労や努力や、幸せや喜びは、どれも本当は本当に美しいものなんだと思う。

週末に休みがなくなっても、やっぱり僕にとって週末は特別なもので、だから週末には聴きたくなる歌がたくさんある。

土日が休みだったら、もっと最高な気分でこの歌を聴けるんじゃないかって思うんだ。 土日休みに憧れるのは、別に休みたいからじゃない。好きな歌を、もっと好きになりたいからなのかも。

Google Apps Scriptの1日の利用制限が回復するのはいつ?

(二度目の追記)
このエントリーは役に立たない。


たまには、誰かの役に立ちそうなことを。

最近はGoogle Apps Script とSpreadsheetを毎日のようにいじっているのだけど、昨日、ついに1日の利用上限を超えてしまい、使用に制限をかけられてしまった。

GASで制限を受けるとどうなる?

スクリプトがエラーを返すようになる。
以降は使用できなくなる。

制限の解除は午前9時?…ではありませんでした(追記)

昨日の夜10時ごろ制限を受けて、でも使いたくてうずうずしていたのだけど、ネットを調べてみてもいつ回復するかがわからない。

今朝9時過ぎに使ったときは制限が解除されていたから、制限を受けてから24時間ではなく、決まった時間にリセットされると考えられる。

だとしたら、日本時間の24時か、標準時24時、つまり日本の午前9時のどちらかだと予想。 でもGoogleだから、たぶん後者だと思う。


(追記)
と思ったのだけれど、違いました。
トリガーで起動している処理がまたしても1日の制限を超えてしまったのだけど、今回は午前9時をまたいで前後でエラーが発生。 制限解除が9時ではないことは確かになった。

対策

大抵のことは、時間と睡眠が解決してくれる。寝よう。

あるいは、上限を超える処理というのは、そもそもGASにさせる仕事じゃないかも。見直そう。
前提として、とりあえずコードの無駄もなくすこと。

それでも使うしかないなら、G Suiteの上位プランを申し込もう。
独自ドメインが必要なのがネックだけどね。

おわりに

親愛なるGoogleに、心からの敬意と感謝を。
負荷かけてごめんなさい。

自己観察日記 #0

今日はブログの整理をしている。下書きに以下の文章が残っていて、せっかくだから削除せずにしておこうと思った。でも書き直したりする気も起きないから、そのまま公開してみる。へー、こんなこと考えてたんだ。結論は今でもわからないや。


今日は一日予定もなく、図書館や古本屋に行ったりした。 特に読みたい本もなく、読むべき本もわからず、今の僕に必要なのは自分自身と向き合う時間なのだろう、という結論に達した。

教養に関する本をパラパラとめくったりした。その本いわく、教養を学ぶことは、ジョブズがカリグラフィーを学んだことと近しいことだそうだ。いつ役に立つかはわからないが、それがあるから正しい判断をしたり、将来を見据えた行動をしたりできる。なんだか哲学の話みたいに聞こえる。

捉えどころのない物事については、僕は深く考えることができない。できないというのは正しくなく、実際にはできそうにない、というのが正しいのだろうけれど、挑戦しないということはできないことと同じだから、特に問題はない。我ながら面倒くさい、回りくどい書き方をする。ただ、頭の中が同じように回りくどい構造になっているのだ。ここでいう頭の中というのは思考のことだ。だから、仕方ないと思うことにする。

合理的な判断が常に正しいとは限らない。人の感情というのは非合理的なもので、僕たちは人だ。実に面倒だ。 クリスマスはもっと幸せな想像と妄想で飾られる日だと思っていた。僕はクリスチャンじゃないから、救われなくても仕方ないのだろうか。この辺りの解釈も、キリスト教についての知識があればまた変わるかもしれない。 学ぶことは知識を増やすことで、知識が増えれば多様な解釈やより理想的・平和的な解釈ができるようになる。教養を身につけるというのは、そういう意味に近いのかもしれない。僕には教養がないのでわからない。教養があれば、少なくともこのわからないことはなくすことができる。

明日から、今日から、どのように生きればいいのだろう。何が正しいかわからず、自分がどうするべきかもわからない。この状況は、砂漠にいるようなものだ。伊坂幸太郎の砂漠という小説を思い出す。社会は砂漠だ。

自己観察日記を始めようかと思う。自分を他者の視点で見ると、至らない点がたくさん見えるはずだ。それを直していけば、きっと立派な人間に近づける。それで僕はどうしたいんだろう。必死に生きて、その先にあるものは何だ?完璧な人間なんて誰が好きになるだろう?

書くことを嫌いにならないために、明日まで覚えておきたいこと。

好きなことを仕事にすると嫌いになる、という話を聞いたことがある。本当かどうかは知らない。嫌いになることもあれば、嫌いにならないこともあるのだと思う。世の中の物事は大抵そんな感じでどっちも正しい。僕はそんな曖昧さを好ましく思う。
僕にとって好きなことは何か、考えてみてもはっきりした答えは出てこないのだけれど、もしかしたら書くことがそうかもしれない。

仕事でもなくブログなんて書く人間は、ただの物好きかあるいは自己顕示欲の強い人なんだろう。という偏見を、僕はどこかに持っている気がする。でも、よくよく考えれば書くことは話すことと変わらないし、歌うこととも変わらないのだ。それは人が人らしくあるために必要な行動なのかもしれない。

僕はヒトカラが好きだ。自分の歌は好きじゃないけど、歌も、歌う人も好きだから。それと同じように、何かを書く人が好きだ。仕事であっても、個人的な日記であっても、考えたことや感じたことを言葉にして、それを紡いでいくという行為は美しいものだと思うから。

今の僕は、仕事で文章を書かなくてはいけない。だから文章術の本なんかを読み漁っているし、どのような見出しをつければ反応がいいかなんてことを考えたりもする。でも、それがちっとも楽しくない。内容は誰かの役に立つものにしているつもりだし、このブログよりもずっと意義があって読みやすい文章になっているとも思う。だけど、それを書いている僕は楽しくない。これが僕の最近の悩みだ。

きっと、考えないでいることが好きなのだ。感じるままに文字を連ねて、指先が自動的にタイピングして。誰の目にも触れず、誰の役にも立たないから、何の責任を負う必要もない。でも、本当にそれでいいのだろうか…。

どうせならお金になることをしたほうがいい。お金にならない行為なんて意味がない。趣味全般に言えることだけれど、まっとうな意見だ。何かを書きたいなら、WordPress独自ドメインでサイト作って、記事に広告でも貼ってやればいい。

ここまで書いて、わかった。効率を求めるとつまらなくなる。仕事なら効率を求めてしまうし、お金が絡めばもっと儲けたいと欲が出る。だからつまらなくなる。

この文章は何かを伝えたくて書いたわけじゃない。ただ自分の思考を脳から手を通じて画面にアウトプットしただけだ。でもあえてまとめるなら、次のようになる。

「書くことが好きなら、書くために書けばいいじゃん。」

ところで、「〜じゃん」というのは千葉の方言だと昔聞いたのだけれど、本当なのだろうか。信じがたい。

週末定点観測 #15

週は明けてしまったけれど、習慣づけたいからなんとか書いておく。

観た映画

ツーリストを見た! 好きな映画。テレビで放送していた。

初めて行ったところ

高知県と、愛媛県と、銀座のバー。どこも楽しかった。 人と会う用事があって、そういう時はだいたい行く前は憂鬱なのだけれど、行ってしまえば楽しい。仕事と同じだ。憂鬱なのは、何を話せばいいか、どのように振る舞えばいいか不安だからだ。つまりは自信がないからで、これはまだ当分は治らない気がする。

音楽について

街角や駅前で歌っている人がすき。有名なアーティストじゃなくても、歌や演奏が飛び抜けてうまくなくても、そこには特別な空気が流れているから、すごく、素敵に聞こえる。実際に素敵なんだろうと思う。 最近になって、ニコニコ動画の生放送というものを初めて視聴した。我ながら時代の流れに乗るのが遅いと思う。きっとそれらの放送のほとんどは、大変失礼ながら退屈なものだと思う。このブログのように。 でも、そこでたまたま出会った放送の中で歌われていた、「君の放送」という曲がすごく良かった。オリジナルの曲らしい。人生で初めてコメントというものを残した。

運動と趣味について

ランニングは続かなくなってきた。ダーツを久々にやったら、ハットトリックが決まって楽しかった。こんなささやかな楽しみはあるんだ。それに友達がいるというのはそれだけでいいことだと思う。

仕事について

自分の仕事の流れをあらかじめ枠決めして、自分自身を歯車の一つとして、半自動的に仕事を進めるような環境を整えている。つまりは作業に伴って生じるあらゆる抵抗を減らすべく努めている。でも、その結果なんだか仕事をしている感が薄れてきていて、流されている感覚が生じ始めた。どうしたものかな。これも、楽しむ仕組みを作らなくてはならないと切実に思う。

読んだ本

司馬遼太郎竜馬がゆくを読み始めた。前々から読むべきと聞いていたけれど、興味が湧くこともなく後回しにしていた。今もそんなに積極的に読もうというわけではないけれど、何も読まないよりは良いと思い、読み始めてみた。本当はもっと本を読むべきなのだけれど、なかなか気乗りしない。

今週は本を読むようにしよう。文字を書くようにしよう。日々を楽しむために。

自己観察日記 #9

最近楽しいことはありましたか?
この数年で一番楽しかったことは何ですか?

先週の僕は、この質問に答えることができなかった。

僕は数年前から、Day OneというiPhoneアプリで不定期に日記をつけていて、そのアプリでは書いた文章を検索することもできる。そこで、僕がどのようなことを楽しみ、「楽しい」あるいは「楽しかった」と記したかを調べてみようと思い「楽し」で検索してみた。驚くことに、一つもヒットしなかった。そこには楽しいことなんてなかった。

確か、このブログには楽しみなこととかも書いていた気がする。だから、全く楽しいことがないわけじゃない。今日だって昨日だって、ささやかな楽しみはあったはずだ。けれども、それは果たして本当に楽しいと感じていたのだろうか、と疑問に感じてしまった。

自分に向き合うのは苦手だ。頭が痛くなる。自分のことほどわからないことはないから。日々の行為は楽しいことじゃなくても問題ない。楽しいことなんてなくても生きていける。そう思っているけれど、そう思ってしまっていることが悲しい。できることなら、もっと何もかも楽しみたいのだ。仕事も、人生も。

義務感で生きている。そう感じることがよくある。生きるのは借りを返すためで、自分のためじゃない。遊んでいる時は、必死に楽しんでいるふりをする。周りの人に気を遣わせないように。自分自身を騙すために。仕事にも誇りややりがいを感じているふりをする。ネガティブな部分はみんな隠して、家族にも同僚にもいいところだけ見せようとする。

僕がたしか小学生の頃に読んだぼのぼのという漫画に、スナドリネコさんというキャラクターが登場する。話はほとんど忘れてしまったけれど、「平気なふりをするのが得意なだけさ」という彼の台詞はとてもかっこよくて、そこだけが記憶に残っている。
僕はいつも平気なふりをしている。いつからかそうすることが染み付いてしまって、弱みを見せるのが苦手になってしまった。僕は望んで、平気なふりをしている。傷を見せることができたら、どれだけ楽だろうか、と思うこともある。数人のごく限られた友人たちの前では、平気なふりをしないでいることができて、そこだけは唯一僕の居場所だと感じた。でもそれも、それぞれの生活の変化に伴って変わってしまうのだろう。そしておそらく、また僕は平気なふりをするのだ。

どうにも悲しい毎日だ。どうしようもなく思えても、なんとかするしかない。今に不満があるのなら、変わらなくてはならない。あるいは、変えなくては。

大丈夫。明日はきっと今日よりもいい日だ。

前置きが長くなったけど、そんなこんなで僕はこれから日々を楽しもうと決意した。できるかぎり。

太陽系外惑星が見つかったんだって。

NASAが言ってた。

太陽系と比べて考えてみる。

宇宙のあれこれというのは、いつだってスケールがわかりにくい。普段接することのない単位ばかりだし、1光年がどの程度の距離なのか、kmになおしたところで正直わからない。桁が違いすぎるんだ。だから太陽系と比べて整理してみる。

今回の発見を、僕らの住む太陽系に置き換えながら考えてみよう。ネットの記事によると、どうやら、見つかった太陽系外惑星群は「TRAPPIST-1」という星が僕らの住む太陽系における太陽の役割をしているようだ。
そして、その周りに惑星が7つ存在することが発見された。

TRAPPIST-1は太陽の100分の1ほどの大きさしかないし、太陽よりもずっと温度も低いらしい。

地球に相当する星で、今回の発見の話題性の肝になる"水があるかもしれない星"は3つあって、「TRAPPIST-1e」、「TRAPPIST-1f」、「TRAPPIST-1g」っていうんだって。それらTRAPPIST-1の惑星たちは、地球と太陽の20分の1くらいの距離を回っている。TRAPPIST-1は太陽よりも温度が低いから、距離が近いことで丁度いい温度が保たれているそうだ。

ちなみに、近い分だけ公転の周期もすごく短くて、ゆっくり回る惑星でも地球時間で二週間もしないうちに1回転してしまうらしい。その星に住んだら、一年が二週間で過ぎるわけだ。移住できたら2000歳を迎えることも夢じゃないね。

また、それらの惑星は、地球に対しての月のように、TRAPPIST-1に対して同じ面を向けて回っている可能性もあるんだって。その場合は、ずっと昼の場所と、ずっと夜の場所とがある。夜と昼の境目あたりだけ、生き物が住める環境になるのかもしれない。まるでおとぎ話の世界みたいだ。

39光年の彼方に思いを馳せる

宇宙のあれこれというのは、いつだってスケールがわかりにくい。普段接することのない単位ばかりだし、1光年がどの程度の距離なのか、kmになおしたところで正直わからない。一応計算してみた。

39光年って、370兆キロメートルくらいで、それって時速300kmで走っても1億4千万年もかかる距離なんだ。遠すぎるよ。。計算間違ってたらごめん。。

そこに移住できる星があったとしても、そこに生命があったとしても、そこから宇宙人が飛んできても、きっと僕には関係のない話だ。生きている間に、何かをどうにかできるわけはない。でも、それが宇宙のいいところだと思う。
例えば、月の裏側を見る必要なんてなかったと僕は思う。月にはウサギが住んでた方が楽しいし、その可能性が少しでも残されていた方が夢がある。まあ、クレーターだらけの月も、あれはあれで愛しいけどね。
手が届かない場所にあっても、どれだけ遠くても、思いだけはそこに行くことができる。ロマンって大切。