花びらを数える日々

チラシの裏、ときどき星の屑

週末定点観測 #14

少しサボってましたが。タイトルの命名規則を改めて、再開。実は16週目くらい?

運動について

iPhoneのアプリで計測を始めた。runtasticというやつ。走るときは、だいたい1km/5分ちょいのペースで5km走る。 足が少し痛むので、最近は回数が少なめ。 体を動かすのは好きなのだけど、痩せすぎてあばらが浮いてきて困る。

食事について

不摂生が続いていた。食べることにあまり関心がなくて、一人で食べることが多かったから余計によくない。 人と一緒に食べるときはちゃんと食べてるんだけどな。

コーヒーが美味しい一週間だった。
コーヒーはだいたいいつでも美味しい。これは多分、人が生きる理由の一つだ。

楽しかったこと

学生時代の後輩が出演する舞台を見に行った。笑ったし、少し涙ぐんだ。やっぱり演劇っていいね。歳をとると涙もろくなるというのは、どうやら本当らしいと、ここ数年実感している。

仕事関係

自分のタスクの完了数と完了タイミングによってスコアを獲得し、一定のスコアでレベルが上がるタスク管理表を作った。たのしー

あと、チャットワークのアプリをようやくスマホにインストールした。ウェブ版と比べてすごく使いやすい。UI・UXの違いでこれほど使用時の気持ちが変わるとは驚き。

楽しみなこと

週末に飲みに行くこと。数少ない友人と会う日は、いつも楽しみだ。

不安なこと

人と会うにあたって、何を話せばいいかがわからない。話題を考えないと。と、こんなことを考えている時点ですでに負けている気がする。何にってわけじゃないけれど、何かに。

新しい発見

数日前からVocaloidの歌を聴くようになった。今更感が半端ないけど、電子的な声が歌うってなんかSF的なロマンがあるよね。それに、他のアーティスト以上に、多くの人々の想いや願いの上に楽曲が成り立っている感じがして、そう言った背景とかに思いを馳せると感動する。確かにこれは一つの文化だ。今まで目を向けなかった自分を反省。

明日は朝から飛行機に乗る。どんな景色が見えるだろう。どんな音が聞こえるだろう。きっと明日は、今日よりもいい日だ。だから明日からの七日間も、精一杯頑張ろう。

自己観察日記 #8

世の中の多くのことには原因や理由があると僕たちは知っている。「多くのこと」とは、「ほとんどのこと」かもしれないし、「すべてのこと」かもしれない。だから、今日の自分が怠惰で行動が遅いことにも、久々に行う複雑な仕事を前にして思考が停止しそうになったことにも、ほぼ100%原因や理由があるはずだ、と僕は考えた。

原因を紐解いていけば、きっと解決の糸口が見つかる。問題は、答えにたどり着くだけの体力や気力があるかどうかだ。

ここまで考えて、残念ながら今日はダメみたいだ、と諦める。頭が働かない。僕の脳はまるでニートだ。何もしていないのに疲れたとは情けない。僕は人に羨まれるほどポジティブな人間なのだけれど、今日はネガティブみたいだ。きっとバレンタインデーのせい。

最近は、今まで積み上げたものを費やして生きている感覚がある。動物や植物の命を奪って食べて生きるのと同じように、人の好意や自分の努力や、それらによって得ることのできた何かを燃やして生きているような気がするのだ。僕は人や社会からもらった善意を返すことが人生の意味ではないかと、そうしたいと考えていた頃があった。それは願いだった。今ではその思いが、強迫観念のようにやってくる。どうしたものか。

人の感情にはたぶん波がある。だから荒れているときは、穏やかになるのを待つことにしよう。他人に対しても、自分に対しても。
おやすみ。明日はきっと、今日よりもいい日だ。

自己観察日記 #7

今日は自己反省日記。

努力や苦労といった言葉は、積み重ねられるもののように扱われる。それはまるで財布の中の万札みたいに、きっと少しずつ減っていくんだ。働いてお金を稼いで貯金するのと同じように、努力や苦労も、貯めておかなくては減っていく一方だ。最近の僕は、過去の僕が貯めたそれらを費やして生きている。 本を読むことが少なくなって、ブログも書かなくなって、外に出ることも走ることも少なくなった。要するに怠惰になったのだ。このままではニートもどきになってしまう。あいにく僕にはかじることのできるすねはない。自分がこれ以上ガリガリになる前に、状況を変えなくてはならない。

仕事がつまらない。一日が始まるのが億劫に感じる。楽しみなこともない。こんな憂鬱な気分も、バレンタインが終わって少しはマシになるだろう。いつだって明日は今日よりもいい日だ。仕事がつまらないのは、本気じゃないからだってわかってる。わかってるんだけどなぁ。わかっていてもできないことが多すぎるんだ。僕は素直じゃないみたい。

明日から頑張ろう。おやすみ。

自己観察日記 #6

脳が動くのを嫌がっている。そうとしか思えないときがある。今だ。

何かを書いては消し、消しては書いて、そんなことを繰り返して時間だけが過ぎる。

サン=テグジュペリの夜間飛行は、初稿からは随分多くのシーンや記述が削られた、と聞いた。完成されたデザインと同じように、それは不要なものをことごとく削り落とすことによって、洗練させることに成功させたのだと。
消された文章であっても、きっと彼の中には息づいていて、それが物語に本物の世界らしい空気感を与えているのだろう。

僕の思考や文字の羅列には、そんな高尚な意味なんてない。消された部分には特別な役割も、意味も、ない。
それでも、こんな風に考えたことや感じたことの積み重ねが、人格を作るのだとしたら、どうか。きっとそれは素人の実験のようなものだ。不確かで、仮説もなく、手当たり次第にできることをやってみているだけ。
それでも、決して無意味ではないのだと、今日の僕は思う。そうであってほしいと願う。

できることを、できるだけやるということ

ヘミングウェイは偉大だ。
僕はヘミングウェイの写実的な表現が好きだ。
ヘミングウェイは、こんな言葉を残した。

動きと行動を混同してはならない。

英語では、moveとaction。 僕はこのセリフ、あるいは記述を実際に彼の本で読んだことがないので、どのような文脈の中の言葉なのかを知らない。でも、この言葉がもし、ただの動きには意味がないという意味であるならば、一つの反論がある。

人には、とにかく動くべきときがある。と僕は思う。それがただの動きであっても、何か目的を伴う行動であっても。どちらであるか、自分ではわからなくても。

そうでないと、きっと停滞してしまうから。わからないなら考えればいい。でも、考えられないときや、考えても答えが見つからないときは、とにかく動いてみるのもいいと思うんだ。

だから今日は、一行でも一文でもいいから、寝る前にブログを書こうと思った。誰の役に立たなくても、自分の役にも立たなくても、言い訳をしながらでも、何もしないよりはきっとマシだと信じているから。精一杯の抵抗だ。

おやすみ。明日はもっといい日にしよう。

自己観察日記 #5

本を読むことが嫌いになってしまった。かもしれない。

いつも読む本は、物語だったり、実用書だったり、あるいは日々の生活とは関係のない学問の本だったりするのだけれど、今はどれも読みたくない。

今日は昼前に図書館へ行き、なぜだか目に止まった本を開いて、最初と最後だけ読んだ。一つの物語が始まって、終わった。ハッピーではない、不幸中の幸いのような終わり方で、それでもハッピーエンドだからいいかと、満足して本を閉じる。

もし悲しい物語なら、知らないままでいたい。本を開くことがなければ、悲劇が始まることもないから。もし素敵な物語なら、終わらないでほしい。その世界に浸っていたい。でも、物語には必ず終わりがある。10年くらい前に読んだ本の作者が、物語を終わらせることができなければ、それはプロの作家とは言えない、と書いていた。だから、終わりがあるのは仕方のないことだと思うようにしている。

別れが悲しいから、出会わないでいたい。まるで恋をしたときみたいだ。

実用書は楽しくない。学びは楽しいけれど、頭を休めたいときだってあるんだ。

日々の生活と関係のない、純粋な興味をもとに本を読むことも多い。だけど、知らないままでいた方がいいこともあると、気づいてしまった。例えば宇宙のこと。ロマンで溢れた彼方の世界は、ファンタジーに近いものだった。知れば知るほど、学べば学ぶほど、魔法は科学へと変わってしまう。それはそれで別のロマンはあるのだけれど、少し寂しくなる。月は、手が届かないから一層美しく思えるのだ。

プラモデルのジレンマ、と名付けよう。それについて思いを馳せている時間が一番楽しいのだ。実際に作り始めると、それは根気のいる作業で、飽きたりつまらなかったりする。そのものは好きだけど、そのものが持つ役割を果たすのは実は好きじゃない。完成は待ち遠しいけれど、終わってしまうのは惜しい。

今日の僕は、そんなことを考えていた。

自己観察日記 #4

どうやらこのブログを開設して、もう一年が経つみたいだ。 最近のウェブサービスはこういう記念日をよく覚えていて、マメな恋人並みに知らせてくれる。少し嬉しい。

一年を振り返ると、成長していないところは数え切れないほどある。人格の形成という面では、年齢的に今後そこまで大きな成長は見込めないのかもしれない。それは寂しいから、もっと本を読もう、と思った。

成長したところを数えたい。少しは成長したかもしれない、と思えるところを探すと、僕は前よりも自分に向き合うようになったようなきがする。できるはずないと決めつけることも少なくなった。それは、逃げているだけだということを知ったからだ。ほんの少しの変化だけれど、僕にとっては大事なことだ。今でも逃げてばかりの人生ではあるものの、無意識に逃げるのではなく、選択の結果として逃げることが多くなった。これはいいことなのかそれとも悪いことなのか、少し微妙なところだ。臆病にもなっただけかもしれないから。
あと、この一年間は、古い友人たちにも会う機会を持つようにしていた。今まではそんな勇気も度胸もなかったから、なんだかんだ、僕は成長したのかもしれない。あるいは図太くなったか。

これからの一年は、今までとは違う一年にしたいな。